アラブ・ユダヤ問題の歴史的背景

「アラブ」と古代文明

出来事
紀元前
3000頃メソポタミア文明
1750頃バビロニア第一王朝
625新バビロニア王朝
1200頃モーゼ、ユダヤ12部族を率いてパレスティナへ移動
紀元後
30イエス・キリスト処刑
70エルサレムのユダヤ神殿をローマ帝国軍が破壊
135ユダヤ人、エルサレムから追放
247ササン朝ペルシャ成立
375ゲルマン民族の大移動
610ムハンマド、啓示を受ける
622ムハンマド、メディナへ移動(ヒジュラ)
630ムスリム軍、メッカ奪回
632ムスリム軍、シリア、イラクを征服
640ムスリム軍、エジプト、スーダン征服
661ダマスカスにウマイヤ朝成立
683ムスリム軍、アルジェリア征服
684ムスリム軍、モロッコ征服
713ムスリム軍、西ゴート王国(イベリア半島)征服
750アッバース朝成立(後にバグダットへ遷都)
756アブド・アッ・ラハアーン、コルトヴァに後期ウマイヤ朝開く(イスラム帝国東西に分裂、以降各地に独立王朝が生まれる)
970セルジューク朝トルコの侵入始まる
1055セルジューク・トルコ、バグダットを占領
1096十字軍の遠征始まる
1099十字軍、エルサレムを占領
1187サーラフ・アッディーン、エルサレム奪回
1400ティムール帝国、シリアに侵入
1453トルコのオスマン帝国コンスタンチノープルを占領、ビザンチン帝国滅亡
1492キリスト教徒グラナダ占領、ムスリム勢力のイベリア半島支配終焉
1498ヴァスコ・ダ・ガマ、喜望峰航路発見
1534オスマン帝国バグダット占領
1574オスマン帝国アルジェリア占領
1588イギリス、スペインの無敵艦隊を破る

「アラブ世界」と呼ばれる地域。それは、エジプトとスーダンのナイル渓谷、東のアル・マシュレク(イラク、シリア、ヨルダン、レバノン、パレスティナ。「肥沃な三日月地帯」とも言われる)、西のアル・マグレブ(リビア、アルジェリア、モロッコ、モーリタニア)、そしてアラビア半島が、地理的なアラブ世界である。ここに住んでいる、アラビア語を話す人たちが、アラブ人と呼ばれている。

この地域は、人類文明発祥の地とも言われる。イラクのチグリス・ユーフラテス河流域に、シュメール人によって人類最古のメソポタミア文明が起こる。紀元前3000年頃のことだ。

マシュレク一帯では、セム語系民族のバビロニア、アッシリア、ユダヤ、フェニキア、アラビア人などが、このメソポタミア文明の後継者となって、それぞれの文明を築いた。また、古代アーリア人が、やはりメソポタミア文明を吸収して、イランに独自の文明を起こす。一方で、エジプト、マグレブではハム語系民族の古代エジプト人が独自の文明を生み出す。

ユダヤ民族

ユダヤ民族の興亡

こうした中で、セム語系のユダヤ人十二部族が、族長モーゼ(ムーサー)に率いられて囚われていたエジプトから脱出、現在のパレスティナの地に王国を築く。紀元前13世紀頃のことである。

ユダヤ人はダビデ(ダーウド)、ソロモン(スライマーン)らの下で繁栄し、キリスト教、イスラム教の基礎にもなった、ヤーベ神を奉じる唯一神教のユダヤ教を生み出す。『旧約聖書』は、その聖典である。このユダヤ王国も一世紀にローマ帝国に滅ぼされ、135年にエルサレムから追放される。

地中海沿岸に広がったユダヤ人は、一部は農民として、その土地の民族と宗教に同化する。貿易に携わる部分は、ユダヤ教を核として入信した他民族を加えて商業民族となり、独自のアイデンティティーをヨーロッパ社会のなかで維持していく。

時代が進んで近代に入ると、シルクロードに代表される遠距離貿易は衰退し、産業革命によって資本主義、帝国主義の時代が到来する。こうしたなかで、例外的に大資本家となった者を除いて、多くのユダヤ商人は没落し、東ヨーロッパに定住するようになる。

しかし、ヨーロッパ社会は歴史的にユダヤ人を差別しつづけ、反ユダヤ感情を民衆のなかに植え付け、支配者に対する敵対をそらすためにポグロム(虐殺)を繰り返した。

シオニズムの登場

こうしたユダヤ人の状況のなかで、約束の地シオン(パレスティナ)に還ろうというシオニズム運動が生まれる。テオドール・ヘルツル(1860~1905)の唱えたユダヤ国家設立運動は、1897年のバーゼル会議によってひとつの政治潮流に成長していく。

シオニズムはイギリス帝国主義と結びつき、イギリスのパレスティナ占領という事態を利用して、移民という形でイスラエル国家の設立をめざしていく。しかし、当初ユダヤ人の多くは居住国への同化を指向し、シオニストはユダヤ社会のなかでは少数派だった。

この流れを変えてしまったのは、1933年ドイツでナチス党が政権を握り、ファシスト独裁者アドルフ・ヒトラーによってユダヤ人絶滅政策が推進されたためだった。ドイツとその占領下の東欧で行われたホロコースト(大虐殺)が、ユダヤ人をイスラエル建国へと向かわせた。

第二次大戦中の1942年、ニューヨークで開かれたシオニスト臨時大会で起草された「ビルトモア綱領」は、イスラエル国家創設を要求した。これに参加したイスラエル労働総同盟(ヒスタドールト)のダヴィッド・ベン・グリオンは、イスラエルの初代首相となる。

アラブとムスリム

ムスリムの勃興

一方のアラブはどのような歴史を歩んできたのだろうか。

本来のアラブ人とは、アラビア半島の奥地、ヒジャーズと呼ばれるメッカ周辺の平原地帯に住んでいた、アラビア語を話す部族だった。この古代アラビア社会が、しだいにアラビア半島の部族を言語的に統合し、最高神アッラーと各部族の守護神という形態の宗教を生み出していた。現在イスラムの聖殿になっている、メッカのカーバ神殿には、各部族神の偶像(石などで表象されていた)が祀られていたという。

610年、メッカの商人モハメッド(ムハンマド)が啓示を受け、預言者を名乗ってアッラーを唯一神とする宗教を唱え始めた。ちなみにイスラム(ムスリム)とは、アラビア語で「神に帰依する者」の意味である。神アッラーは、彼を通してアラビア語の聖典『コーラン』(クルアーン)を伝えた。しかし彼は伝統社会の迫害を受け、622年信徒とともにメディナへ脱出する。これをヒジュラ(遷都)と呼び、イスラム歴元年となっている。

メディナでこの信徒共同体(ウンマ)は強化され、630年メッカを奪回して首都とし、領土拡大の歴史にはいる。632年にムハンマドは死去するが、いわゆる「右手に剣、左手にクルアーン」という軍事遠征を開始し、アラビア半島はおろか、東ではササン朝ペルシャを滅ぼし、633~37年マシュリクを、39~42年にはエジプトを征服する。さらに7世紀末にはモロッコまで進出し、710年イベリア半島(現スペイン)の西ゴート王国を征服、こうして広大なムスリム帝国が生まれる。

661年シリアのダマスカスに遷都したウマイヤ朝、750年に成立し後にバグダッドに遷都したアッバース朝によって、都市文明を中心にしたムスリム文化の黄金時代が訪れる。9~14世紀のバグダッドは百万の人口を抱える大都市だった。

ムスリム帝国の繁栄

ムスリムの征服は、支配した民族をアラビア語とイスラム教に取り込んでいった。つまり、単に武力によってではなく文化的にも征服することによって、諸民族を今日でいう「アラブ」に結合したのである。

エジプトは、その文化的・歴史的相違にもかかわらず、アラブに統合された。しかしペルシャは、イスラム化はしたものの、アラビア語は受け入れなかった。インド、インドネシア、フィリピン南部までイスラム教は伝来したにもかかわらず、言語的にはイラクで止まった。現在もアラブ世界の文化的境界線はイラン・イラクの国境線上にある。

こうして生まれたイスラム文化圏は、先進文明であるペルシャ、エジプト、地中海文化の遺産を積極的に吸収し、アラビア語に翻訳する組織的な作業に取り組んだ。当時のヨーロッパ世界が中世の暗黒時代に入り、14世紀にルネッサンスが始まるまで、イスラム文化圏が最先端の科学知識を有していた。カイロのアズハル・モスクは、世界最古の大学である。

ヨーロッパ文明は、中世にイスラムに受け継がれ、そしてルネッサンス期に今度はヨーロッパがアラブから再吸収することによって、歴史的連続性が保たれたのである。またイスラムの繁栄は、それが先進文化を積極的に受け入れることによってもたらされた。ある意味で、明治維新や第二次世界大戦後の日本の姿に、共通するところがある。

イスラム教の「正体」

イスラム教そのものも、唯一神教のユダヤ教が母体となっている。

神という概念はキリスト、イスラム教も同一である。キリスト教は、イエス・キリストを神の子として崇め、彼を全人類の救世主(メシア)とすることによってユダヤ民族宗教の枠から飛び出した分派である。イスラム教では、イエス・キリストは預言者の一人であって、神の子とは認めない。ムハンマドを含めてすべての預言者は人間であり、ただ啓示を受けただけにすぎない、とする。ただ一人の神だけを崇めることを要求し、預言者や他の偶像を崇拝することを認めない。そして、ムハンマドが最後の啓示を受けた預言者だとされている。

聖典に登場する人物や説話の大部分は、『旧約聖書』と一緒である。クルアーンには、モーセ(ムーサー)、アブラハム(イブラヒーム)、ロト(ルート)、イサク(イスハーク)、ヤコブ(ヤアクーブ)、もちろん聖母マリアやキリストも登場する。また、アダムとイブのエデンの園追放、モーセの十戒、ノアの方舟、ソドム壊滅の説話も登場する。さらに、復活と「最後の審判」や地獄の劫火(ジャハンナム)、悪魔サタン(シャイターン)という考え方も共通している。というよりも、イスラム教はキリスト教と同様に、ユダヤ教を引き継いでいるのだ。

ところで、イスラムの教えの中には信仰のためには武器をも持って闘うという聖戦(ジハード)があるが、こうした考えとは裏腹に、イスラム教は先に述べたような文化的な柔軟性を備えている。また征服した地域でも、イスラムに改宗しない者は税金を納めることによって自治を認められるという、ズインマの制度があった。イスラム文化を支えた知識人の中には、ペルシャ等の他文明の異教徒が含まれていた。

ムスリム帝国の衰退

ムスリムが支配した地域は、エジプトとメソポタミアを除いてほとんどが乾燥地帯であり、農業に適さなかった。こうした環境で文化が花開いたのは、この地域がアジア、ヨーロッパ、アフリカを結ぶ通商ルートの要であり、まさにこの遠距離貿易からもたらされる富によって、ダマスカスやバグダッドの都市文明が栄えたのである。そして、スペイン、ポルトガルによる大航海時代が始まり、アフリカ航路が発見されて海洋貿易が主流を占めるにしたがって、アラブの文明は衰退していく。

この一方で、同じイスラムではあるが非アラブのトルコ人が、勢力を伸ばしていく。1055年にはトルコ人のセルジューク朝がバグダッドを占領する。ちなみに、ヨーロッパ社会が11~13世紀にかけて、聖地エルサレム奪回のために十字軍の遠征を行ったのは、このセルジューク朝の進出がキリスト教世界東端の砦、ビザンチン帝国を圧迫し、またキリスト教徒のエルサレム巡礼を妨害したからである。また、十字軍を撃退したアラブの英雄サラディーン(サーラフ・アッディーン)は、クルド族出身であった。

通商ルートの変更、セルジューク朝トルコの支配、ついでモンゴルの末裔ティムール帝国の侵略に続き、トルコ人のオスマン帝国の支配が1639年から始まる。アラブ世界は第一次世界大戦終結まで、このオスマン帝国の支配下におかれる。

ヨーロッパ世界では産業革命後、イギリス、フランス帝国主義が台頭し、17~18世紀にかけてペルシャ湾岸への進出が始まる。19世紀後半になると、後発の帝国主義ドイツがオスマン帝国と結んで中東地域への進出を図り、英仏との対立が深まる。そして第一次大戦に乗じて中東のトルコ支配地域の分割に、それぞれが乗り出した。

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