価値創造を巡る三つの視点

効用(限界効用説)

唐突ですが、経済生活における「物」の価値は、何によって決まるのでしょうか? また、その価値を生み出しているのは、誰なのでしょうか? 初めに、いわゆる「効用」という観点から、これらを考察していきます。

付加された価値

一般に、何らかの商品が、競合商品よりも売れるようにするためには、「付加価値」が必要だと言われます。もしくは、「付加価値」があるからこそ、その商品は他のものよりも売れるとされます。そして、商品開発とは、付加価値を創造することだとされています。

価値の有用性としての効用

付加価値を持つものは、そうでないものよりも多くの有用性があり、人々はその有用性を求めて商品を購入します。もちろん、有用性とは購入者にとって得になるものであり、その効用に対する期待度が、購入動機となります。そして、購入者は効用に対価を支払うことになるので、効用の有無や大小が、経済生活の価値を体現することになります。

また、今日の産業構造において、効用は“物”(=財)に付随するだけでなく、様々なサービスにも含有されています。実際、工業化以降の社会では、サービス業や情報通信業によって、無形の効用が氾濫しているかのように見えているのではないでしょうか。そして、価値の創造者、すなわち「クリエイター」とは、有形よりは無形の付加価値を、より多く生み出せる人々に冠せられた称号だと言えます。

効用による価値表現

高付加価値な商品は、より多くの利益を生む出す可能性がありますが、一方で、世の中には低い価値の商品もたくさん販売されています。例えば、1杯数千円のラーメンが高級店で供される一方で、100円未満のカップ麺をスーパーで買うことができます。

こうした価値の偏差の存在も、効用が説明しようとします。すなわち、ある人が高級ラーメンからは「自分へのご褒美」といったような一過性の効用を得て満足することもあれば、日々の生活レベルに収まる範囲で「毎日ラーメンが食べたい」という効用を得るため、低価格カップ麺も買うといった具合です。そうした効用に適合するのであれば、高額商品も廉価商品も、価値を生むという理屈です。

もちろん、人類全般の社会格差に応じて、金持ちはあらゆるレベルの効用が獲得可能であり、貧乏人は廉価な大量生産品で充足可能な効用が与えられ、経済生活の秩序が成り立っていると捉えることもできるでしょう。

心理現象としての効用

しかし、効用によって説明された「価値」は、実のところ、その配分を説明しているだけであって、それがどのように生み出されているかについては答えてはいません。他の商品に対し、当該商品には付加価値があるという表現は、価値の大きさを比較しているのであって、価値の量について語っているに過ぎません。

では、商品の有用性が価値なのでしょうか? 確かに、物の有用性は、それに対する期待や幻想を含めて、当該商品に人を惹き寄せる要因です。しかし、それは人の心の中で、人それぞれに異なる強さを持って生じる、心理的な現象です。

そうした心の領域に生じるものが、なぜ、商品価格を携えて、市場に現れるのでしょうか? その、物質的な基礎もしくは裏付けは、いったい何なのでしょうか? すなわち、「効用に価値がある」と言っているだけでは、価値そのものが何であるかを語ってはいないのです。

需給バランス説

個々人のレベルでの心理的効果である効用が、ある商品の流通に影響を与えるとするなら、個の効用の集合が需要を生み出し、価値の流入を促しているとも考えられます。そして、多くの人々が効用を求めるなら、当該商品の需要が高まります。この需要の高まりが、価値を生むのでしょうか? 次に、「需要と供給」という観点から、価値の源泉を探ってみます。

価格変動の原理

たしかに、需要が高い商品は売れます。そこで、需要に対する供給が取り沙汰されます。一般に、需要の急激な上昇に供給が追い付かないと、当該商品の市場価格は高騰します。すなわち、インフレーションです。

価格高騰は金儲けの機会を提供し、その商品生産に投資が行われ、供給が増強されることになります。また、そこに商機を見出した類似商品の開発も、供給に加わります。需要に対する供給が安定すれば価格も落ち着き、さらに供給過剰となれば、価格は下落します。すなわち、デフレーションです。

平均価格への収斂

結局のところ、一時的な価格高騰は、商品の供給過剰や陳腐化によって価格下落を招き、その平均的な価格に収斂することになります。平たく言えば、商売には儲かるときも損するときもあり、平均すれば価格は一定なのです。平たく言わなければ、市場では等価交換が行われているのであり、需給バランスによる価格変化が、価値を創造しているわけではないのです。

商品の価値は、市場では「価格」で表現されます。需給バランスは、市場動向によって価格で表された価値にブレが生じることを説明しているに過ぎません。そして、平均価格への収斂は、ある商品の価値は市場へ投入される以前に、既に生成されていることを意味します。

効用と需給バランス

「市場での価格変動が価値を生み出しているわけではない」—そうであるなら、経済を需給バランスで巨視的に眺める「マクロ経済」ではなく、個々の効用から論じる「ミクロ経済」に、やはり価値の答えがあるのでしょうか? しかし、先に述べたとおり、それは「効用に価値あり」と言っているだけで、価値自体がどこで生み出されたかは、説明していません。効用も需給バランスも、既存の価値を前提とした概念であり、いずれにおいても価値はアプリオリな存在でしかないのです。

商品として販売されるものには、それ自体を使う目的、すなわち「使用価値」があります。これを前提として、商品は市場での売り買い=交換が行われます。ここで取引されるものが商品の「交換価値」であり、その金銭的表現が価格です。

「効用」は、結局のところ、使用価値を表現しているのであり、それを交換価値と一緒くたにすることで、価値の“真価”を隠蔽しています。一方、需給バランスは交換価値の遷移に目を奪われ、価値の“真価”を見失っています

労働価値説

心理要因としての使用価値を別の名前で呼んだものでもなく、また価格の推移をなぞったものでもなく、価値生成に物質的な裏付けを与えることが、経済学にはできないのでしょうか? その解答として、もうひとつの経済学的立場を考察してみましょう。

前提としての等価交換

交換価値が、平均価格に収斂するのであるなら、見かけの狂騒とは異なり、市場では等価で商品の交換が行われているのです。すなわち、交換価値は等価交換されることが前提です。

価値が、すべて等価でやり取りされているなら、実は世界は非常に公平で、利益は平等に分配されているか、そもそも利益など存在しないのではないかと思えます。しかし、実際には交換で利益を上げ、場合によっては莫大な収益を得ている企業が、厳然と存在しています。

どこかで価値が増え、それが収穫されていなければ、こうした金儲けは成り立ちません。しかし、それは世間一般で信じられているような、市場での売り買いが価値を生み出しているわけではないのです。

労働によって追加される価値

「経済学」なるものが始まった頃、すなわち古典派経済学では、「価値は労働から生まれる」という考え方が前提になっていました。これを、労働価値説と呼びます。名称は格式張っていますが、「商品は、それを生産する労働によって価値が付与される」という、拍子抜けするほど至極真っ当な考え方です。

商品に原材料があれば、それらが商品として生産されたときの労働で既に与えられた価値があり、さらに目的の商品として生産される過程での労働が、追加の価値を与えます。既存の価値の上に、新たな労働で追加された価値が堆積し、それが市場では商品として価値が価格で表現され、貨幣との交換が実現します。すなわち、市場に姿を現した商品は、既に価値の生成が終わっているのです。

市場が価値を生むのではなく、価値が生まれる場所は商品の生産過程であり、それが労働だということです。

不等価交換の所在

しかし、価値が労働によって生産されることは当たり前だとしても、その価値を等価交換するのでは、利益は出ません。労働価値説は、価値の誕生を説明するだけで、“商売の秘密”には無頓着なのでしょうか。もちろん、“商売の秘密”を解き明かせずに右往左往している労働価値説もあれば、需給バランスや効用にその答えを求めて堂々巡りをしている経済学もあります。

結局のところ、どこかに不等価交換が無ければ、儲けは生まれません。そこで、需給バランスの考え方は、市場に不等価交換を求めたわけです。

剰余価値

しかし、労働価値説の或る流派は、市場はやはり等価交換であるとし、生産過程に一種の不等価交換が存在していることを解明しました。それが剰余価値説です。

不変資本と可変資本

商品の生産過程に必要なものは、原材料や製造機械(製造施設)、そして労働です。原材料や機械は、以前の労働で価値が既に与えられているので、その価値が増えることはありません。そこで、これらに投下される資本を不変資本と呼びます。一方、原材料や機械を使って商品を生産する労働が価値を増やしていくので、それに投入される資本を可変資本と呼びます。

不変資本は、市場から等価交換で購入した商品ですから、過去の価値(死んだ労働)が、生産する商品に転移するだけです。それ自体が、新たな価値を増やすことはありません。新たな価値を追加するものは、当該商品生産にとって現在の生きた労働であり、それに投資される可変資本のみなのです。

商品としての労働力

可変資本は、労働に投入されるわけですが、労働も商品であり、労働市場で交換されます。その労働商品とは、労働者の「働く能力」です。労働者は、労働能力を商品として販売し、受け取った賃金の代償としてその能力を商品生産に供します。この労働能力商品が労働力であり、生産においてそれを発現したものが労働です。

労働力は商品ですから、やはり交換価値を持ちます。価値は、生産過程で生まれるのですから、労働力の交換価値も、その生産費によって決定されます。端的に言うと、労働者の生存と繁殖にかかる費用です。すなわち、労働者が自分と家族を養い、一定の生活水準や教養を保つためにかかる費用ですが、それが商品である以上、労働市場で平均に収斂された価格で表されます。

剰余価値の出現

先に、労働力商品の対価が賃金であると説明しましたが、ここでも等価交換が行われるのであれば、この世の中に儲けは存在しません。賃金は一般に労働時間に対して支払われます。ある労働時間に支払われる賃金と、労働力の価値が一致するなら、それは等価交換です。

しかし、実際には、労働時間と価値が一致することはありません。なぜかというに、労働者は、その生存が維持されるのであれば、労働力の価値以上に働くことが可能だからです。労働力の価値を実現する部分が必要労働、それを超えて労働力が使用される部分が剰余労働と呼ばれます。剰余労働に対する対価は、労働者には一切支払われません。この剰余労働部分こそ唯一の不等価交換であり、平たく言えば未払いで生産に使われ、儲けの源泉となるのです。すなわち、剰余価値です。

今日の商品生産では、単に労働力で価値増殖を行うことが目的なのではありません。増殖される価値の中から剰余価値を生み出すこと、そして剰余価値の比率を高め、それを収穫することが、追求されているのです。

そして商品は、生産価格=平均市場価格で販売されるのですが、その中に剰余価値が含まれているのであり、平均価格以上で売買が成立すれば、剰余価値分が儲けとして獲得されるのです。

剰余労働時間の力学

このように、剰余価値こそが儲けの源泉であり、商品生産は剰余価値の生産と獲得が目的なのです。故に企業は、剰余労働時間の拡大を、労働者は逆に縮小を求め、それは双方の力関係によって決まります。産業革命期、労働時間全体は1日12時間を超えていました。一方、労働組合の結成、ストライキ、革命等の労働者の抵抗によって、今日ではおおよそ8時間にまで縮小させることができました。

労働時間全体が縮小されることによって、剰余労働時間の絶対量も縮小されます。当然、それに伴って剰余価値が減少するため、企業は時間当たりの生産能力の向上に努めます。同一時間内の労働量を増やすこと、すなわち、剰余労働時間の質的な拡大です。それには、単に労働者一人当たりの仕事量を増やすだけでなく、新技術の投入による生産性向上が図られます。

しかし、技術革新がすべてを解決するわけではありません。一般に、生産の機械化や情報通信技術による効率化は、人件費の節約になるとされます。機械や技術が投資される生産設備は、不変資本です。そして、縮減される人件費に相当するものは、可変資本です。価値増殖の源泉である可変資本に対し、新たな価値を生まない不変資本への投資比率(資本の有機的構成)が高まれば、当然、得られる価値が減少していきます。そこで、絶対量で価値を拡大するために、弛まぬ生産効率の向上と規模の拡大が図られるのです。これが、競争です。

それも行き詰まると、企業は再び労働時間の極限までの延長を図ります。21世紀初頭の今日でも、ブラック企業が蔓延っている理由は、これで説明がつくでしょう。

価値の創造者

一見すると、商品の“付加価値”や、市場での駆け引きが、経済上の利益を生み出し、それらに費やされる能力が価値の源泉であり、またその能力を持つ者がクリエイターであると謳われています。しかし、そうした現象は、経済の水面に浮かび上がる泡のようなもので、価値の上澄みを啜っているだけです。

実際には、労働が価値の源泉であり、労働者の商品としての労働力が価値を増殖し、企業すなわち資本家がその中から剰余価値を獲得するという仕組みで、今日の経済生活が成り立っているのです。故に、ほんとうの価値の創造者、クリエイターとは、商品を生産する労働者なのです。

終わりに

「物」の価値を、経済学(というよりも労働価値説)的な観点からは、以上のように解明することが可能です。価値は何処にあるのか、価値を何処に求めるのか、それは経済学の流派だけでなく、政治的立場や社会的立場によって、見解は変わるものですが、“真価”を追究する姿勢は、経済的「価値」についてだけでなく、様々な分野で持ち続けていきたいものです

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