アラブ・ユダヤ問題の歴史的背景

「ひとつのアラブ」

これが、五千年前から現代に至る、中東地域、そしてアラブ世界のひととおりの歴史である。確かに複雑な歴史かもしれないが、湾岸戦争のなかで言われているような、宗教的・歴史的対立や国家間の争いは、文化の起源とは違って根の浅いものである。現在ある対立の禍根は、帝国主義のこの地域への進出によってもたらされた。帝国主義が国境を引き、その中に都合のよい支配者を据えた。そのうちのいくつかは民族主義の波に呑まれてしまったが、後に座った指導者たちも、「アラブの大義」を口にしながら、国境線の中にある自分たちの権力に都合のよい政策を取ってきた。1958年、エジプトとシリアは国家統合しアラブ連合を名乗ったが、エジプト側の自国優先政策によって分裂してしまう。汎アラブ主義を掲げ、ミシェル・アフラクらによってシリアで生まれたバース主義は、イラクとシリアの地で別々に発展し、今や犬猿の仲である。

それでもアラブの民衆は、ひとつの言語を喋り、その生活の中に偉大な歴史を共有している。フランスとの解放戦争で独立を勝ち取ったアルジェリアは、130年間の植民地時代にフランス語をおしつけられたが、独立後はゼロからのアラビア語化に取り組み、そのアイデンティティーを取り戻した。「ひとつのアラブ」という意識は、宗教的アイデンティティー以上に、広く民衆の心に根ざしている。漠然とアラブが一体だった中世には、とりたてて「アラブ」という意識は無かった。この意識は、西洋の帝国主義がアラブ世界を分断し辱めたとき、眠りを醒まされたのである。

アラブ民族主義を揺り動かしたのは、19世紀末にシリアで起きたアラブのルネッサンス、「ナハダ」と呼ばれる文化芸術運動だが、ナースィーフ・ヤーズィジー、ブトルス・ブスターニー、ジャマールッ・アル・アフガーニー、アブドッ・ラフマーン・アル・カワーキビー、ナジーブ・アズーリーといった指導者たちは、ほとんどがキリスト教徒だった。カワーキビーの「アラブ主義」は、後のバース主義に大きな影響を与えた。

帝国主義=西洋に対する反対を、イスラム教の伝統回帰に求める動きも生まれた。1929年、ハッサン・バンナーがエジプトで設立した、ムスリム同胞団である。この組織は、社会・文化組織と地下軍事組織を持ち、大きな影響力を得ていた。さらに第二次大戦後の西洋的近代化は、貧富の差を増大し、これがイランにおける政教一致のイスラム共和国を生み出した。1979年のイスラム革命によって、アラブ世界でもイスラム原理主義が大きな影響力を持つようになる。

しかし、アラブ世界はイスラム教だけでは割り切れないし、イスラム教そのものも、柔軟性と殉教精神を兼ね備え、多くの宗派に分裂してもいる。そうしたアラブ世界は、西洋の価値観と、今後も対立を続けるのだろうか? 最後に、あるアラブ人の興味ある言葉を引用して、まとめとしたい。

「アラブ人やトルコ人の学者や政治家たちは、積極的にヨーロッパ勢力の現象分析を進めて、ある程度の結論を出していた。第一の結論は、ヨーロッパの発展はキリスト教に負う所は少ない、したがってイスラムとの共存は不可能ではない、ということだった」(B・ムッサラーム編『アラブ人』第八章「西欧の影」E・サイード

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