アラブ・ユダヤ問題の歴史的背景

20世紀のアラブ

出来事
1760イラクにイギリス商館設立
1798フランス、エジプト占領
1801イギリス、カイロを占領
1820イギリス、ペルシャ湾岸地域制圧
1830フランス、アルジェリア侵入
1837イギリス、アデン(イエメン)を占領
1869スエズ運河開通
1875イギリス、スエズ運河会社の株式独占、支配権を握る
1881フランス、チュニジアに侵入
1897バーゼルで第一回シオニスト会議開催
1911フランス、フェズ(モロッコ)占領。イタリア、リビア領有宣言
1914第一次世界大戦勃発
1916アラブの「砂漠の反乱」始まる。英仏「サイクス-ピコ協定」結ぶ
1917イギリス、「バルフォア宣言」発表
1918第一次大戦終結、トルコのアラブ支配終焉
1920サンレモ会議開催
1922エジプト独立
1932イラク王国独立
1936パレスティナで全国蜂起
1939第二次世界大戦勃発
1942アメリカ・シオニスト組織評議会、イスラエル建国を要求(ビルトモア綱領)
1943レバノン共和国独立。シリア、イラクでバース党結成
1946フランス、シリア、レバノンから撤収。ヨルダン王国独立。シリア共和国独立
1947国連パレスティナ分割決議採択
1948イスラエル独立宣言、第一次中東戦争勃発
1952エジプトでナセルの自由将校団クーデター発生、王制廃止
1953イランの石油国有化挫折、モサデク政権崩壊
1954アルジェリア民族解放戦線(FLN)武装蜂起
1955バグダッド条約機構成立
1956スーダン共和国独立。モロッコ王国独立。エジプト、スエズ運河国有化宣言、第二次中東戦争(スエズ動乱)勃発
1958エジプト、シリア国家統合、アラブ連合成立。イラクでカーシム将軍のクーデター、王制廃止
1961クウェート独立
1962アルジェリア独立
1963イラク、シリアでクーデター、バース党政権成立
1964パレスティナ解放機構(PLO)設立
1967第三次中東戦争勃発。南イエメン独立
1969PLO再編。リビアでクーデター、カダフィ政権成立
1970リビア石油価格値上げ。ヨルダン内戦勃発。シリアにアサド政権成立
1971ヨルダン、パレスティナ・ゲリラを攻撃、PLOレバノンへ撤退。バーレーン独立。アラブ首長国連邦成立
1973第四次中東戦争勃発、石油輸出国機構(OPEC)石油戦略発動
1974PLO、国連にオブザーバー加盟
1977サダト・エジプト大統領、イスラエル訪問
1978キャンプ・デービットで米・エジプト・イスラエル首脳会談
1979エジプト・イスラエル平和条約。イラン革命、イスラム共和国成立
1980イスラエル、シナイ半島から撤退、イスラエル・エジプト国交樹立。イラン・イラク戦争勃発
1981イスラエル、イラクの原子炉爆撃
1982アメリカ、トリポリ(リビア)爆撃
1988イラン・イラク戦争停戦
1990イラク、クウェート侵攻、併合
1991湾岸戦争勃発

帝国主義の進出

1915年、アラブ側は名門ハーシム家(ムハンマドもこの一族の出身であり、代々メッカの太守)のヒジャーズ王、シャリーフ・フセインを旗頭としていくつかの秘密結社が「ダマスカス議定書」を結び、反トルコ独立闘争、いわゆる「砂漠の反乱」を開始する。イギリスは、対オスマン帝国戦を有利にすすめるため、独立機運の高まっていたアラブ人を味方につけることを画策、1915~16年「フセイン-マクマホン書簡」によって戦後アラブ独立国家の樹立を約束する。「アラビアのロレンス」こと、イギリスの情報将校T・E・ロレンスは、この時アラブ軍を統制するために派遣された。

その一方でイギリスはシオニストと結びつき、1917年、「バルフォア宣言」でパレスティナにユダヤ人の「民族的郷土」建設を約束する。しかし、英仏は帝政ロシアとともに1916年に「サイクス-ピコ秘密協定」を結び、中東分割支配を決めていた。この秘密協定がロシア革命によって暴露されると、ハーシム家をイギリス支配地域の国王に据えることによって、独立運動を「買収」する。

第一次大戦を経て、アラブ世界に対するオスマン帝国の支配が崩壊すると、1920年のサンレモ会議、1921年のカイロ会議で、イギリスはパレスティナ、イラク、トランスヨルダン(現ヨルダン)を、フランスはシリアとレバノンを獲得、中東分割支配を実現した。現在のアラブ世界の国境は、この時にオスマン帝国の行政区分に沿って決められた。それまで漠然と一体だったアラブ世界は、この時初めて国境を引かれたのである。

イギリスは、イラク、ヨルダンを委任統治領とし、ハーシム家をそれぞれの王に据える。また、ハーシム家の本国であるヒジャーズには、インド駐留イギリス軍に後押しされたサウード家が侵入し、1932年、サウード家のアラビア、サウジアラビア王国が成立する。アラビア本国を追われ、アラブ独立を裏切ったハーシム家は、ますますイギリスに依存するようになる。

石油争奪戦の始まり

1908年、イラン南西部で石油が発見されて以来、石油利権をめぐる争いがこの地域を支配するようになった。先進国の工業化と、第一次世界大戦における戦略物資としての石油の重要性がこれに拍車をかけた。

新興のアメリカ帝国主義も、利権を求めて介入するようになった。サンレモ会議でイラク石油会社の株式は英仏で独占され、イラク原油に対する事実上の永久管理権がイギリスに認められた。アメリカの石油資本はこれを不満とし、1928年、米・英・仏・オランダにそれぞれ23.75%の株式を分配する赤線協定が結ばれた。1937年にモスール石油会社、1938年にはバスラ石油会社が、同様に設立される。またアメリカの石油資本は、1933年にサウード家から利権譲渡地(コンセッション)を入手、1944年にアラビア・アメリカ石油会社(アラコム)に統合している。

こうしてアメリカ資本は、1948年には中東地域の石油生産の55.2%を支配するようになった(ちなみに38年段階では13.9%)。1942年にはアメリカ政府によって石油埋蔵会社が設立され、この独占に寄与している。そして、第二次大戦後、英仏が軍事的に後退するのに代わって、アメリカがこの地域の「憲兵」の役割を果たすようになる。

二千年後の「再会」

イギリスは、「バルフォア宣言」と同年にパレスティナを占領した。この結果、シオニストの組織的な入植活動が開始される。第二次大戦中のホロコーストによって増加する移民は、武装してパレスティナ人を迫害するようになる。パレスティナ側は1920年、21年、29年と反シオニストの反乱を起こし、1936年には全国蜂起が発生、三年間にわたって続いた。こうした反乱に対し、イギリスは武力をもって鎮圧。また、ハーシム家やサウード家も、イギリス側に回って調停工作にあたった。二千年間共存してきたアラブとユダヤは、帝国主義の介入によって、流血の時代に入っていく。

激化するシオニストとパレスティナ人との抗争は、第二次大戦で疲弊したイギリスの手には負えなくなってきた。1947年、国連は、パレスティナをユダヤとアラブの居住地域に分割する決議を下す(国連パレスティナ分割決議)。アラブ諸国は反対したものの、冷戦前の米ソは一致し、多国籍企業や経済援助をちらつかせた「買収」と圧力で、「レイクサクセス」と呼ばれる“奇跡”によってこの決議は通過する。

翌年、イギリス軍が撤退すると、シオニストはイスラエル独立を宣言。これに対しアラブ諸国は一斉にイスラエルへ進攻し、第一次中東戦争が勃発する。この戦争でイスラエルは大勝利を収め、国連決議の枠を超えて領土を拡大、一方エジプトはガザ回廊を、ヨルダンはエルサレムを含むヨルダン川西岸地区を占領する。このときパレスティナを逃れた人たちは、パレスティナ難民として周辺アラブ諸国でキャンプ生活を送ることとなる。それは現在も続いている。

ナーセル主義の台頭

1952年、エジプトでガマール・アブデル・ナセル(ナーセル)らの「自由将校団」によるクーデターが発生、王制を廃止する。1954年、政権に就いたナーセルはイギリス軍の撤退を実現し、ソ連との友好関係を築く。西側世界はこの報復としてアスワン・ハイダム建設融資を拒否するが、ナーセルはスエズ運河国有化で応酬。これに対し、1956年に英仏がイスラエルと組んでエジプトへ侵攻、第二次中東戦争(スエズ動乱)が勃発する。

しかし、中東地域における英仏の進出を嫌うアメリカ(アメリカはスエズ運河に関する利権を持っていなかった)は、ソ連とともに戦争に反対し、イスラエルは撤退する。この結果、アラブの盟主としてナーセルの株が上がり、アラブ統一の機運がナーセル主義として高揚する。1958年にはイラクで王制打倒のクーデターが起き、1962年にはフランスの植民地にされていたアルジェリアで、民族解放戦線(FLN)が八年に及ぶ独立戦争に勝利する。さらに1963年、アラブ統一を掲げるバース党(アラブ復興社会主義党)が、イラクとシリアで政権を奪取する。

「六日間戦争」の衝撃

そして1967年、パレスティナ奪回を賭けてアラブ諸国はイスラエルに侵攻、第三次中東戦争(六日間戦争)が勃発する。しかしアラブ側は六日間で惨敗し、逆にイスラエルはヨルダン川西岸、シナイ半島(エジプト)、ゴラン高原(シリア)を占領する。ナーセルの権威は失墜し、アラブ統一の勢いは萎えてしまった。

しかし、地域的には急進化傾向が生まれ、1969年にはパレスティナ・ゲリラによってパレスティナ解放機構(PLO)が再編され、パレスティナ民族解放戦線(アル・ファタハ)のヤセル・アラファトが議長に選ばれる。

リビアではアラブ民族主義者運動(ANM)からナーセル主義者が分裂し、ムアンマル・アル・カダフィ(カッザーフィー)らがクーデターで王制を打倒する。石油産業を国有化したカッザーフィー政権は、翌年石油価格を値上げ。欧米の石油支配は、1953年には、イランで石油国有化をめざした民族主義者のモサデク政権をつぶすことに成功したが、リビア以降、各国で国有化の波に洗われるとともに、石油輸出国機構(OPEC)の値上げ攻勢に見舞われる。

その一方で、パレスティナ全域をイスラエルに占領され、ヨルダンを拠点していたPLOは、「国家の中の国家」と言われるまでに成長した。これをヨルダン王制の危機と感じた、ハーシム家唯一の生き残りであるフセイン国王は、ゲリラを軍事弾圧、1970年に内戦が勃発する(「黒い九月」事件)。翌年、休戦協定を破棄してヨルダン軍は再び攻撃を行い、PLOはレバノンへ移動する。この挫折からパレスティナ・ゲリラは、1972年のミュンヘン・オリンピックにおけるイスラエル選手団襲撃事件や、ハイジャックなどのテロ作戦に傾斜する。

ゲリラ組織を中心に構成されたPLO、そしてこの時期のテロ作戦などを理由として、イスラエルとアメリカはPLOを交渉相手として認めようとしない。しかし、ヨルダン内戦の教訓から、PLOはレバノンのパレスティナ難民に浸透していくとともに、73年にはアラブ首脳会議で「パレスティナ人民を代表する唯一の合法組織」として承認され、74年には国連常駐オブザーバーの資格も与えられる。

「石油戦略」と盟主エジプトの後退

1973年、アラブ諸国はイスラエルに攻撃をかけ、第四次中東戦争が勃発する。アラブ側は軍事的戦果を得られなかったものの、アメリカなどのイスラエル支援国に対する石油禁輸を発表、いわゆる「石油戦略」を発動し政治的勝利を得る。この結果、一年間で石油価格は四倍に暴騰。おりからの世界不況と重なって、第一次オイルショックと呼ばれる世界恐慌を引き起こした。

しかし、対イスラエル前線国家のエジプトは、度重なる戦争で疲弊し、和平工作をめざすようになる。もう一方の前線レバノンでは、こうした動きに右派のキリスト教マロン派民兵が励まされ、パレスティナ人に対する襲撃を皮切りに、1975年、レバノン内戦が勃発する。マロン派民兵は、介入したシリア軍やイスラエルと連携し、一方パレスティナ・ゲリラは、左派のイスラム教ドルーズ派民兵などと組んで対抗する。

エジプトでは、ナーセルの後を継いだサダトは、第四次中東戦争を経て、1977年にイスラエルを電撃訪問、イスラエルの存在を承認する。1978年にはアメリカを加えての首脳会談(キャンプデービッド会談)が開催され、1979年、平和条約が調印される。これらすべては、アメリカのイニシアティブによって進められた。アラブ16か国はエジプトと国交断絶、経済制裁を決定する。この条約の結果、イスラエルに占領されていたシナイ半島が、1982年に返還される。これは、イスラエルが返還した唯一の占領地である。

イスラム革命の影響

エジプトを取り込むことによって、中東地域での覇権を固めようとしたアメリカだったが、もう一方の拠点であったイランで、パーレビ(パフラビー)国王が1979年、革命によって倒され、イスラム教シーア派原理主義者、ホメイニ師らによってイスラム共和国が樹立される。ホメイニ政権は、アメリカ大使館を占拠し人質を取るなど反米色を強めるとともに、イスラム革命の輸出を主張する。

イランの隣国で、アラブ世界東端の砦を自負するイラクでは、1968年、バース党将校団によるクーデターが発生、成立したバクル政権は共産党を弾圧するなど独裁体制を築き上げていく。1979年、バクル引退とともに大統領の座に就いたサダム(サッダーム)・フセインは1980年、イランに侵攻、イラン・イラク戦争が勃発する。イランを恐れる湾岸諸国や西側世界はイラクを援助、イラクは化学兵器や弾道ミサイルを装備し、百万の軍隊を持つ軍事大国に成長する。一方、イラクの核兵器開発を恐れるイスラエルは、1982年、バグダッド郊外の原子炉を爆撃して破壊。しかしイスラエルは、南部のネゲブ砂漠地帯に秘密の軍事核施設を建造し、既に核兵器の保有に至っている。

パレスティナ解放闘争の変遷

1980年代に入ると、アラファトらPLO主流派は、交渉によるパレスティナ問題の解決を図ろうとし、1985年にはアラファトとヨルダンのフセイン国王の間で「アンマン合意」に達する。しかし、PLO内強硬派は国連決議242号(イスラエルの生存権を承認)受け入れを拒否し、1986年、ヨルダン側は和平工作を中断。1987年、パレスティナ側もアンマン合意を破棄する。同年12月には、イスラエル占領地でパレスティナ人の「素手による蜂起」闘争、インティファーダが開始され、イスラエルによる流血の弾圧が現在も続いている。

1990年に入るとペレストロイカの影響でソ連・イスラエル関係が改善され、ソ連国内のユダヤ人出国規制が緩和。その一方で、アメリカが移民規制を強化、必然的にソ連系ユダヤ人が大量にイスラエルへ移民する事態となった。新しい移民の波は占領地に入植し、パレスティナ側との新たな対立要因となっている。

泥沼のレバノン内戦

1982年、イスラエルはパレスティナ・ゲリラの攻撃を口実にレバノンへ侵攻、西ベイルートを包囲する。二か月にわたる凄惨な包囲戦をPLOは戦い抜いた後、レバノンからの撤退を余儀なくされる。同年、ベイルートのパレスティナ難民キャンプでイスラエル兵による虐殺事件が発生、イスラエル国内でも政府批判の声が高まった。また、レバノン国際監視軍としてアメリカとフランスが派兵するものの、1983年、軍司令部に対する爆弾テロで二百名以上が死亡、翌年撤退する。イスラエルもテロ攻撃に悩まされ、1985年に撤退する。

1986年に入ると、親シリアのイスラム教シーア派民兵組織アマルが、ドルーズ派進歩社会主義党やレバノン共産党の民兵と武力衝突。シリア軍が、これを口実にレバノンに進駐する。また、同年レバノンに復帰したPLOの影響力拡大を恐れたアマルが、パレスティナ難民キャンプを攻撃、キャンプ戦争が激化する。さらに、親イランのシーア派ヒズボラ(神の党)やイスラム聖戦機構(実態不明の組織)などの原理主義者による、欧米人人質事件が続発した。

1989年にはキリスト教徒のアウン将軍と、イスラム教徒のホス首相代行とに政府が分裂。アウンは、レバノン軍団を率いて民兵組織制圧を開始。当初はドルーズ派民兵と衝突したが、次第に駐留シリア軍との戦争に発展。迫撃砲、榴弾砲、ロケット弾の応酬による「内戦史上最悪の戦闘」となった。

シリアと対立するイラクは、アウン将軍を支持する。1990年8月のイラクのクウェート侵攻が起きると、シリアはアメリカ側に着く。そしてアメリカ、イスラエルの黙認の下にレバノン軍団を攻撃、アウン将軍排除に成功し、レバノンにおける影響力を強固なものにした。

アメリカの「ターゲット」

反米色を強め、隣国チャドに軍事介入を行っていたリビアに対し、アメリカはテロ国家と決めつけ、1981年、シドラ湾(リビア領海内)上空でリビア軍機を撃墜。1983、84年には、同湾内で軍事演習を強行してカッザーフィー政権を威嚇。そして1986年、経済断交に踏み切るとともに、西ドイツで起きた爆弾テロ事件で米兵が死傷したのを口実に首都トリポリ空爆を強行、カッザーフィー暗殺を狙った。同年の東京サミットでは、名指しでテロ国家であると(リビアを)非難した。以降も、化学工場を化学兵器の製造に転用しているとか、核兵器秘密開発の嫌疑をかけては、非難キャンペーンが繰り広げられてきた。1989年にも、地中海上でリビア軍機が撃墜されている。こうしたアメリカや西側の圧力の中で、カッザーフィー政権の外交政策には転換がみられ、マグレブ6か国による地域統合をめざしたマグレブ連合が同年結成され、近隣諸国との融和外交が進められている。

ペルシャ湾岸では、1988年イラン・イラク戦争が停戦する。イランに代わって湾岸の軍事大国に成長したイラクに対し、イタリア国営銀行(BNL)の不正融資事件が発覚。1989年に入ると、イギリスからの超長距離砲用特殊鋼管密輸事件等のキャンペーンが仕掛けられる。サッダーム・フセインは、リビアのカッザーフィーと同じように「狂気の独裁者」として描かれるようになる。

軍事大国化の裏では、750億ドルにのぼる対外債務を抱え込み、戦後復興にも膨大な予算を必要としていたイラク。しかし湾岸諸国は、イラン・イラク戦争が終結すると支援を凍結、イラクが援助と考えていた戦費の融資も返済を要求。クウェートは、イラク国境沿いのルメイラ油田を盗掘し、OPECの生産協定枠を破って増産を続け、石油価格の下落を招いた。

石油収入を頼みの綱とするイラクはこれに憤慨、1990年8月、クウェートに侵攻。その4か月前には「関係改善を望む」親書をイラクに送っていたアメリカのブッシュ政権は、急遽サウジアラビアに軍隊を派遣。経済制裁を実行。国連決議の名の下に、英仏や「アラブ合同軍」のエジプト・シリア・サウジなどとともに「多国籍軍」として1991年1月、大規模なイラク空爆を開始。翌月地上戦に突入後、数日間でクウェートを奪回、イラク南部を占領。サッダーム・フセインは、事実上降伏する…。

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