UXの政治的考察

先の記事(「Windows 8におけるCorelDRAW」)にも書きましたが、Windows 8では、新たなユーザー体験(User eXperience)の創出や提供が図られている、という考え方があるようです。

パーソナル コンピューターにおける従来型のUXは、ドキュメントの作成や編集に依拠したもので、「ドキュメント生産型」のUXとして、捉えることができます。一方、インターネットでのページ閲覧や検索といった、ポストPC的なUXは、「ドキュメント消費型」なのかもしれません。そして、メールやSNSでのメッセージのやり取りのような、小規模なドキュメント生産とその消費は、2つのUXの中間に当たる「ドキュメント参加型」とでも呼べばよいでしょうか。

Windows 8の舵取りは、デスクトップ アプリケーションを中心に据えたドキュメント生産型UXから、Metroアプリケーションによるドキュメント消費型UXへと、その進む方向を変えようとしているわけです。

私は、今もドキュメント生産型タイプの人間なので、やはりデスクトップ アプリケーションに固執してしまいますが、パソコンもデスクトップやタワー型の重厚長大なマシンから、タブレットやスマートフォンのような軽薄短小なマシンへ移行していく中、UXもドキュメント消費型へ大きく傾いていくのが、時代の趨勢なのでしょう。

もちろん、ここでの「生産」と「消費」という表現は、私の感覚によって恣意的に選んでいます。すなわち、生産に肯定的な響きを、消費に否定的な意味合いを持たせるためです。パソコンには、Do It Yourself、自らの志向や力で何とでもできる、という「魔法の箱」的な性格があります。もちろん、OSやアプリケーションのように、もしくはCPUやマザーボードといった汎用部品のように、他者によって提供される環境があってこそ成り立つ環境ですが、その上での生産行為は、ユーザー次第です。そこに、一種の自由が生まれるのですが、生産行為を他者に委ね、消費だけで満足するようになると、それは知的領域の奴隷化につながりかねません。

また、中間項に当たる参加型は、言葉的には生産と消費が両立した理想的形態のようですが、Webページがブログへ、ブログが”つぶやき”へと言葉を切り縮めていく「縮小再生産」過程にあっては、両立というよりも生産が消費へと退化していく橋渡しをしているに過ぎません。

こうした一般的傾向が、Windowsという場で表されるのは、傍目には面白い現象でしょう。ただ、これを社会、もしくはより狭義の政治に置き換えてみると、ちょっと危険な兆候が感じ取れます。

政治は、その社会の全構成員によって、協働的に生産されるべきものです。政治家や官僚といった代理人に代行生産させるのではなく、全住人よって生活化された政治の生産過程が、社会を統治するのです(それを最早「政治」とは呼ばないかもしれませんが)。しかし、実際には、代理人による統治が”現実的”とされ、それが民主主義と呼ばれています。この民主主義社会では、代理人が提示する様々な政策、たとえば原発の再稼働、消費増税、年金制度改革などが、結果的に受け入れざるを得ないもとのして消費されていきます。

ここで敢えて例示した政策は、一般的に政策消費者にとって不満の大きなものですが、自らが生産していない以上、それを消費するしかありません。生産を他者に委ねることは、一定の不満を生みますが、自らが生産しなければならないという面倒からは解放されるので、額面どおりの消費に傾くわけです。

また、そこに介入する参加型が、縮小再生産的であればあるほど、すなわち、不満を単純化した形で吸収するような政治的アプローチであるほど、社会構成員を政治の生産から遠ざけ、消費への隷属を強めていきます。たとえば、大阪市の橋下市長の政治姿勢に、それは端的に表れています。彼の”原発反対”でも見られたように、マスコミを通して流布する単純明快なスローガンで政治参加への一体感を醸し出しつつ、その実は政府の政策(原発再稼働)消費に、参加者を妥協させていくやり口です。消費に伴う不満は、一時的な参加幻想の中で解消され、結果として消費がより受け入れやすくなるのです。

Windowsはともかく、政治や社会のレベルにおいては、私たちすべてが生産者であるべきです。そして、生産のUXが、社会運営に個人が参加する契機であり動機となるような、そんな社会(=共産主義)を私は夢見ています。

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