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黒住浩司 Webサイト

ギリシャは遠い国?

内容

神話の記憶

僕は小学生ぐらいの頃から、歴史が好きでした。その基になったのは、たぶん、子供向けのギリシャ神話の本を読んだことだと思います。もしくは、その頃、「イアソンと黄金の羊」冒険譚を題材にした映画(特撮は、レイ・ハリーハウゼン)をテレビで見て、古代ギリシャとその神話世界に魅かれたのかもしれません。そこから、エジプト、マヤ、インカなど、世界の古代文明に興味が広がっていきました。同じころ、やはり子供向けの「古事記」も読んだのですが、火の神を産んだために焼けただれて死んだイザナミの話、そのあとのイザナギとイザナミの「黄泉の国」でのやり取りなど、こちらはおぞましくて好きにはなれませんでした。その本の後書きには、日本神話は「血なまぐさいギリシャ神話とは違う」といった解説が書いてあり、「だからといって日本の神話も美しい話じゃないぞ」と思った、その違和感を未だに持ち続けています。まあ、大人になってから古事記・日本書紀も、ギリシャ神話も、考古学的趣味から、また読み返したこともありますが、神話の中にある人間の残酷さは大差ないと思います。

一方で、ギリシャについては、神話の世界はそれなりに知っていたつもりでしたが、特にギリシャの現代史には、あまり詳しくありませんでした。紺碧のエーゲ海、丘の上の神殿、神話と遺跡の国。古代オリンピック発祥の地。行ったことはないけど、観光の国。レストランなのに、ギリシャ語では「タベルナ」…。そんな程度で、ギリシャから思い浮かぶイメージは、ほんとうにパルテノン神殿と、海の色ぐらいがすべてでした。1960年代末から70年代半ばにかけて、軍事独裁政権下にあったことなど、80年代半ばまで知りませんでした。小学生ぐらいの頃、ヘラクレスやペルセウスが活躍する神話の国としてあこがれていた裏では、血なまぐさい現代政治が本当に行われていたわけです。

通貨危機下の現代

そんなギリシャが、最近、よくニュースで報じられるようになりました。「欧州通貨危機」というテーマの下にです。すなわち、ギリシャを筆頭に、通貨ユーロを導入している国の一部で国家財政支出が膨らみ、(赤字の誤魔化しもあって)借金を返すめどが立たなくなってしまった、しかし債務不履行に陥ると経済の弱いユーロ圏の国々にも波及する恐れがある、それが通貨ユーロの信用そのものを損ね、ヨーロッパ経済だけでなく全世界の金融危機が広がりかねない、というストーリーです。

この危機の拡大を防ぐため、ユーロ圏の諸国は、ギリシャに資金援助することを決めたわけですが、当然、金持ち国から赤字国へ、ただお金を与えて終わり、というわけではありません。お金をもらう国は、与える側の指示に従って、これ以上借金が増えないように、支出を切り詰めなければなりません。それが国単位の場合、主として社会保障や公共サービスの削減、公務員の解雇といった、いわゆる「緊縮財政」になるわけです。しかし、資本主義経済の下、赤字が増大している国は、当然ですが経済がうまくいっていません。すると、雇用機会が少なくなり、若者が就職できない、失業者の増大といった社会問題が生じます。問題の緩和には、失業保険や雇用支援といった公共サービスが必要ですが、それは最大限切り詰められるという悪循環に陥ります。そして、ギリシャでは、緊縮財政継続の賛否を問う総選挙が行われ、賛成派の2大与党は大敗、反対の左派・急進左翼連合は躍進したものの、賛成派・反対派ともに議会の過半数は取れず、次期政権樹立のめどすら立たないという、政治の混乱にも陥ってしまっています。

この混乱について、日本のニュース(僕はTVの場合、NHKとTBSを見る場合がほとんどですが)では、「欧州通貨危機の再燃が懸念される」という扱われ方が主流です。すなわち、言外には「早く政治の混乱を収拾し、緊縮財政を受け入れろ」、という捉え方です。もう少し明確に言えば、「緊縮財政を受け入れ、通貨ユーロに対する市場の信頼を回復せよ」、ということになります。「借金作ったやつが悪いんだから、人に迷惑をかける前に身を切って我慢しろ」、といったほうが分かりやすいでしょうか? それは、一にも二にも、(金融)市場の信頼回復のためにです。この「市場」、もしくは「マーケット」というキーワードは、ギリシャ問題だけでなく、政治や経済の話題では、今や耳にしないことはありません。あらゆる政策は、”国民”の支持ではなくマーケットの支持が肝要なようです。金融マーケット=お金の流れに、すべて身を任せなければならないなんて、浅ましい考え方であると捉える向きも昔はあったようですが、今は世の中の常識であり、正論のようです。まあ、震災復興とかでは、マーケットの支持云々はあまり口にされないので、この正論の下品さに少しは顔を赤らめる良心は、残っているのかもしれませんが。

「市場」がすべて?

では、ギリシャの人々は、マーケットのために、緊縮財政に耐えなければならないのでしょうか。僕たちも、「それは自業自得だよ」といって、日本が火の粉をかぶらないために、ギリシャの人々(敢えて言えば、労働者)に諦めろとか、まじめに働けとか、要求するのが正しいのでしょうか。もちろん、「マーケット」は、それを正しい要求とすることでしょう。「ギリシャ人はろくに働かないからダメだ」、なんていう意見もTVで耳にしたことがあります。先に書いたように、僕はギリシャに行ったこともないので、ギリシャ人がどんな働き方をしているのか、よく知りません。しかし、ギリシャの若年層が見舞われている雇用状況は、”まじめに働く人の多い”日本でも、共通しています。それが、いわゆる「格差拡大」として身に染みつつある”日本人”に、今の”ギリシャ人”の苦境を共有できないとしたら、よほど裕福な生活ができているのか(それを壊されるのが怖いのか)、もしくは感性をマーケットに支配されているのか、どちらかとしか思えません。

しかし、少なくとも僕は、マーケットの奴隷ではありません。”日本人”だろうが”ギリシャ人”だろうが、誰もマーケットの奴隷ではありません。そんな気持ちでギリシャの現在を見つめるなら、2つの国の神話に違いがあっても、「人として」生きる道に変わりはないと思います。