第4章

ボリュームは反時計回りに

90年代

陰鬱な幕開け

80年代は、ベルリンの壁とともに終わりを迎え、90年代は、イラクのクウェート侵攻、それに続く湾岸戦争で幕を開けた。幕間劇というには重大過ぎるが、ソヴィエト連邦の崩壊も、90年代初頭に翳りを付け加えた。

東欧社会主義圏の消滅やソ連邦の崩壊、湾岸戦争でのアメリカの勝利は、バブル期に膨らんだ日本人の傲慢さを、さらに助長した。破裂寸前まで膨らんで、その直後に、ほんとうに破裂してしまうと、今度は見る影もないほどに萎縮してしまった。「失われた10年」などと自嘲気味に語られる90年代、人々は自分の身を案ずることで精一杯になっていた。

しかし、バブルを謳歌していた頃も、失意に明け暮れる時代も、結局人々は、自分の身の周りより外には、目を向けようとしなかった。内輪の中で、贅沢を愉しみ、今度はリストラに怯えているに過ぎない。80年代と90年代は、経済的には明暗をくっきりと分ける結果になったが、そこから得られた反省や教訓が、果たしてこの社会にあったのだろうか?

こんな時代の幕開けの頃、僕は抑えようのない怒りを、音楽で解消していた。スタークラブの怒りに満ちた曲が、当時のお気に入りだった。

音楽を聴かなくなった頃

90年代、僕の生活環境も目まぐるしく変わった。90年に、求人広告会社へアルバイトを変え、デザインの仕事に始めて就いた。DTPという技術とも、お近づきになった。

そこでバブル崩壊の荒波をまともに被り、働いていた部署がリストラされ子会社へ異動。そのおかげで正社員になったのだが、当の子会社も営業不振で、僕らの部署はまた放出。今度は有限会社として独立し、僕は取締役として会社役員に昇格。身分や肩書きだけは立派になっていったが、最後の頃は、始発で出かけ、終電で帰宅。土日もほとんど働いた。帰宅途上の電車で吊革に掴まって立っていても、膝がガクッと崩れてしまう。見かねたおばさんが、席を譲ってくれたこともあった。もちろん、音楽を聴く余裕もなかった。

子会社にしろ、独立会社にしろ、僕ががむしゃらに働いたのは、ともに働く人たちのために、その職場と雇用を守りたい、そんな使命感に突き動かされてのことだった。職場と雇用の確保、などというのは御用組合のスローガンにも似ているが、僕自身の力でできそうなことは、それぐらいだった。少なくとも、一緒に働いてきた同僚たちが、この不況の荒波にすくわれないように、橋頭堡を守りたかった。

しかし、そんな状況下でも、否、そんな状況下だからこそ、ほとんどの同僚は、自分のことしか考えていなかった。ほんとうに厳しいところは人任せにし、頃合いを見て条件の良さそうな話に飛びついていく。能力の高い人間に限って、率先して去っていく。

それまで、社会や政治のことを真剣に考え、この厳しい時期には社会や政治のことを傍らにおいて仕事に没頭していたが、そのすべてが終わった。僕はもう、それまでの仕事や義務感の道連れになることはやめて、一人で仕事をすることにした。

つまり、否定的に眺めていた連中や、中学時代に嫌っていた後ろ向きのフォークミュージックと、僕も同じ土俵に立つことにしたのだ。社会や政治、そして世界へ目を向けることも、恥ずかしくてできなくなった。これまでの自分を突き動かしてきた情熱を失ったとき、音楽もほとんど聴かなくなってしまった。80年代の、音楽に対する熱い思い入れは、冷めた情熱とともに消え去った。

ブルーハーツの「旅人」という曲に、こんな一節があった。

導火線に火が点いたのは いつだったろうか
中学生の頃か 生まれる前か
爆発寸前の火薬のような レコードが好きだった

ブルーハーツ「旅人」より

導火線に火がついたのは、高校生の頃だった。火薬のようなレコードが、クラッシュの「白い暴動」だった。まさに、この歌のとおりだった。まだこの頃は、高校時代の熱い気持ちを、時々思い返すこともあった。悔しい、という気持ちがどこかにはあった。

愛する音楽の顛末

しかし、その後ブルーハーツも解散し、「ハイロウズ」というバンドに引き継がれた。一人で仕事をしているときは、ブルーハーツやハイロウズを聴きながら没頭する。99年ごろから、コンピュータ関連の本を書く仕事が入るようになったが、長い原稿に向かうときは、たいていハイロウズが伴奏を任されている。しかも、アルバムの中から気に入った2、3曲だけを、延々と繰り返し聴いている。

ハイロウズは、ブルーハーツの音楽的な中心だった、ボーカルの甲本ヒロトとギターの真島昌利が結成したバンドで、実質的にブルーハーツを継承している。クラッシュが、ジョー・ストラマーとミック・ジョーンズの仲違いで解散してしまったのとは違い、この二人に相当する甲本と真島が結束していたからこそ、ハイロウズはその輝きが褪せていない。

ブルーハーツも、クラッシュなどと同じように、ストレートなパンクから音楽性を変化させていった。彼らの場合は、歌謡曲やポップスといった曖昧さに、その音が近づいていったように思う。その生ぬるさが好きになれず、ブルーハーツの終盤は、僕はもう聴かなかった。ハイロウズへの脱皮は、再び鋭利なロックンロールサウンドの復活だった。そんな音に包まれて、どことなく郷愁を感じさせる歌詞がある。「ハスキー」「青春」といった曲が、まさにそうだ。「心のない優しさは 敗北に似ている」なんて歌声に、僕は必死に働いていた広告制作会社時代を思い返して、「散文的に」苦笑したりする。そう、既にハイロウズに対してすら、僕は新譜を追いかけるようなことはしなくなってしまった。僕は、化石のように、この2曲を、今でも繰り返し聴いている。もう、それで十分なのだ。

キンクスは、94年(95年だったかもしれない)の来日コンサートを観た後は、「トゥ・ザ・ボーン」というアルバムを出し、その後沈黙してしまった。「トゥ・ザ・ボーン」は、過去の集大成のような楽曲集だ。60年代から90年代まで、彼らの全キャリアの中から選び出した曲を、スタジオ・ライブで演奏し直したものだ。つまり、新しいものはない。強いて言えば、演奏は新しいけれど、歌もメロディもリズムも、すべて想い出を奏でるものだった。僕自身、キンクスが残した数多くのアルバムには、数え切れないほどの想い出が付随している。彼らのオリジナルアルバムは、そのほとんどをCDで買いなおした。追加収録曲の違いで、同じアルバムを、輸入盤と国内盤の2枚とも買ったりした。そして、ほとんど収録曲が同じ編集盤も、僅かな違いだけを楽しみにして、多数収集した。このキンクスコレクションの中から、思い出したようにCDを引っ張り出して、時々鑑賞している。

ストラングラーズは、今でも続いている稀有なバンドだ。しかし、サウンドが変遷し、さらにボーカルで中心メンバーだったヒュー・コーンウェル(Hugh Cornwell)が脱退して以降、ほぼ90年代を通して、過去の遺産を食い潰すような活動をしていた。新作もいくつか出したが、それらは大した評価を受けなかった。それよりも、ヒュー在籍時のライブ盤や編集盤がいくつも出され、まるで亡霊が活動しているかのようだった。そうした作品の中では、ヒューが脱退する前日のライブを収録した「サタデー・ナイト・サンデー・モーニング」が、感慨深い。土曜の夜に、彼はいた。しかし、日曜には去ってしまった。中身は亡霊であっても、そんなタイトル(しかも、英国の小説に引っ掛けてある)だけで、心惹かれるものがある。記念碑というよりは、分かれ道に打ち捨てられた庚申塔と呼んだほうが相応しい。だが、レコード店では、次第に彼らのコーナーも消えていった。僕は、オンラインショップで亡霊盤ではない新作アルバムを手に入れたが、そのオリジナルアルバム自体も、かつてのように僕を熱中させるほどのものではなかった。耽美的で、暗く美しいサウンドなのだが、何かが足りない。ストラングラーズのもう一人のリーダー、ベースギターのジャン・ジャック・バーネル(Jean Jacques Burnel)は今もバンドに残っているのだが、彼の強烈な自己主張、主役にしゃしゃり出てくるベースギターの重低音が、音楽的にも後退してしまって以来、オリジナル作のほうも、亡霊のような、掴みどころのないものになっていた。その結果、やはり彼らの初期作品ばかりを、手に取るようになってしまった。ただ、最新作の「ノーフォーク・コースト」というアルバムは、ジャン・ジャックのベースが帰ってきた作品だ。バンドが、過去を対象化し得た結果なのだろうか。

クラッシュは、ジョー・ストラマーの死が寂しくて、あまり聴いていない。02年の12月、心臓発作による突然の他界。友人からその一報を耳にしたとき、僕は少しだけ肩を落とした。90年代を通し、散発的なソロ活動はあったものの、音楽シーンにジョー・ストラマーはほとんど存在していなかった。湾岸戦争、そして02年9月の同時テロに至るまで、彼の政治的発言は聞かれなかった。既にジョーは、僕にとって彼方の存在になっていたのかもしれない。それでも、寂しさは跡に残る。彼の死を祈念してか、レコード店の「クラッシュ」コーナーはやや活況を呈している。しかし僕には、そこから得るものは最早ない。

閉じられた扉

たまに、CATVの音楽番組を観て、耳をそそられるバンドが現れることもある。しかし、アルバムを1枚買って、そのうちの1曲だけを気に入るだけで、もう長続きはしない。CDは、やはり、過去のコレクションを補完するようなものだけを買い続けている。その中から、たとえばニーチェの本を読んだときに、デヴィッド・ボウイの「世界を売った男」などを取り出して、部屋の中に響かせている。

ここ数年は、猫を飼うようになり、もしかすると、猫に対する愛情に、情熱の大部分が流れていっているのかもしれない。初めて飼った猫が交通事故で死んだとき、音楽は何の役割も果たさなかった。あの日、僕の部屋には、何の音楽も流れなかった。

僕は、太宰治の小説が好きなのだが、彼はとっくに他界しているので、もう新作の小説が発表されることはない。本屋の文庫版コーナーには、今でも太宰の小説が並んでいるが、そのすべてを読み終えてしまった。それでも、たまに、買いなおしてしまうことがある。表紙のカバーが新しいものに変わったからとか、ちょうど今読みたかったから、そんな理由で。

しかし、世の中に小説は、数限りなく存在する。なぜ、太宰だけに拘らず、別の作家の本を読まないのか。僕の本棚を見ても、揃っているのは芥川龍之介とヘルマン・ヘッセぐらい。あとは、歴史や民俗学の本ばかりで、音楽と同じように、小説もお気に入りの作家以外の本は、散発的にしか存在しない。

それは、僕が、僕の世界の扉を閉じているからだろう。例えその世界に、過去の遺物だけしか残っていないとしても、門戸を開いて新しいものを迎えようとは、あまり思わない。終わっているものを終わりにしたくはない。そんな、気分だろうか。新しいものが古いものに取って代わるということは、古いものへの死亡宣告を意味する。しかし、ほんとうに、それは、死んでしまっているのだろうか? 世界は、いつか、灰の中からでも甦るかもしれない。そんな果かない期待を抱いて、僕は、僕の世界を限られた音楽のままで、そのままにしておこう。