第3章

生活の糧としてのメロディ

80年代後半

ライン作業の傍らで

一概には言えないが、ポジティブ・パンクのバンドたちは、「パンク」の名を冠していても、政治的な主張より音楽そのもの様式化を追求していたと思う。それも、ゴシック様式。つまり、現実からは背を向けて、自己の耽美的世界に引きこもる、といった具合だ。そうした姿勢は、本来なら、当時の僕の考え方とは相反するものだった。

しかし、こうした音楽は、自動車工場での仕事、つまり非人間的な作業の繰りかえし、非人間的な労使関係、という日常に対する、心の砦だった。後ろ向きではあるけれど、「僕は、お前たちの世界には属さないぞ」、という抵抗だったのだ。

そして、86年。会社の言いなりになっている労働組合に対抗し、その組合の役員選挙に打って出たりしたのだが、終身雇用制と家族意識で労働者を取り込んだ、“自動車絶望工場”鎌田慧がトヨタ自動車の工場に労働者として潜入し、その実態を暴いたルポルタージュの書名。僕のいた工場の内実も、このルポに描かれた状況と大差はないの壁は厚かった。僕が所属する職場単位で、人員が半分近く入れ替えられ、その大半が僕と敵対した。元々一緒に働いていた友人も、会社の圧力に負けて、僕とは疎遠になっていく。さらに、僕の知らないところで、特に付き合いもない同僚が、「あいつは黒住の仲間だ」とレッテルを貼られ、追い落とされる。

まあ、言ってみれば、いい大人たちが陰湿なイジメをやっていたわけだ。村八分、という日本社会の悪しき伝統かもしれない。企業は、その体制を守るために、たった一人の異分子でも、徹底的に排除しようとする。そんな辛い時期、仕事をしながら僕の頭の中に流れていたのは、ポジティブ・パンクではなく、クラッシュの「ムーバーズ・アンド・シェイカーズ」という1曲だった。追い詰められた人間は、優越感だけで乗り切ることなんて、できはしない。

その頃、クラッシュは大きな内部分裂を迎えていた。ドラマーを、麻薬中毒を理由に解雇。そのこと自体は、自己を律する潔癖な姿勢だったのだが、どこか歯車がずれていく。そして、ギタリストでクラッシュのオリジナルメンバーであるミック・ジョーンズ(Mick Jones)が、ジョーと対立し脱退してしまう。そんな状況下、ジョーは「反逆のロック」を歌い続けるんだとあがき、新たなメンバーを加えてアルバム「カット・ザ・クラップ」を発表する。直前のインタビューなどで、ジョーは「反逆のロック」への回帰を主張していた。しかし、蓋を開けてみると、ストレートなパンク風の曲もあるが、それに徹することもできず、中途半端なエレクトリック処理を加えた“出来損ない”のような曲が多かった。

パンクへの回帰は時代遅れ、ミック・ジョーンズが抜けたあとの音楽性も中途半端、このアルバムは、そんな叩かれ方をされていた。ジョー自身、後に「これはクラッシュのアルバムではない」と吐露している。

しかし、僕は、こんなアルバムを作ったジョーが好きだった。僕自身が行き詰まっていたとき、ジョーの反逆のロック、「Rebel Rock」という叫びは、勇気を与えてくれた。ストレートなパンクロックが帰ってくることを期待していた僕にとって、その音には裏切られたが、歌われている言葉は、特に「ムーバーズ・アンド・シェイカーズ」では、どのような状況下でも前進することの必要性を訴えかけてくる。

結局クラッシュは、このアルバムの直後に解散してしまう。捨て身の賭けに、“当たって砕けろ”で立ち向かい、直面した困難を乗り切ることができず、ほんとうに砕け散ってしまった。しかも、音楽的には逡巡した挙句に。

ジョー、そしてクラッシュの潔さは、決してカッコのよいものではない。そこには、いつも迷いがあり、それを打ち消そうとするかのような勇ましさが、凛々しくも映るし、哀れだと言う人もいる。そんな彼らの歌や言葉に、それでも僕は鼓舞されてきた。86年、この時もだ。神の啓示も、英雄の命令も、賢人の箴言も、僕はいらない。等身大の、思い悩む人間の言葉が、僕には必要だった。

音楽的には、ファンや評論家にも、メンバー自身にも認められていない、哀れな運命を背負い込んだ1枚のアルバム。しかし、この「カット・ザ・クラップ」は、僕の心の中には、永遠の想い出として、またジョーや僕自身の生き様の象徴として、深く刻み込まれている。

「クラッシュが解散したから」、という理由ではないが、自動車工場の状況に耐え切れず、僕は会社を辞めた。僕も、当たって砕けてしまったのだ。

86年の晩秋

その直前、仕事が休みの日は、草加や三郷に住んでいる友人のところへ毎週のように出かけていた。彼らは、新聞部の友人の、その中学時代の友人グループで、キンクスやストーンズといった音楽の趣味の、震源地だった。必然的に、僕は彼らとも仲良くなり、よく音楽の話をしながら酔いつぶれていたりした。

ストラングラーズは、80年代前半には音楽的に新たな転換期を迎えていた。初期3作の暴力的なサウンドから、しだいに表面的な荒々しさが後退し、陰鬱さを背景にしたメロディが台頭してきた。その黒幕として、グラムロック時代直前のデヴィッド・ボウイにも関わっていたプロデューサー、トニー・ヴィスコンティ(Tony Visconti)の存在があった。名前からして、ヨーロッパ的ないかがわしさが漂うヴィスコンティだが、彼が制作に参加したアルバム「狂人館」「黒豹」の2作はその最高潮で、「ゴールデン・ブラウン」という大ヒット曲(英国での話しだが)も生まれている。とはいえ、この時期も、唸るようなベースギターの重苦しい音は健在だった。その音が、メロディの美しさだけには流されない、骨太な印象を保っていた。また、当時の彼らが目指していた音楽は、ポジティブ・パンクの音楽的なルーツということもできる。

しかし、80年代後半になると、なぜかこのベースの音が消えてしまった。メロディだけがより美しく洗練されていったが、なんとなく軽い。真夏の油蝉の合唱から、晩夏の蜩の独唱に移り変わるような、そんな侘び寂びも感じられはするのだが、蝉の抜け殻になってしまったような印象も拭えなかった。

PILのジョン・ライドンも、80年代後半には迷走していたといってよい。かつてPILは、「ロックは死んだ」と標榜し、音楽的にもそのスローガンを追及していた。まさに、カリスマだった。「コマーシャル・ゾーン」という次回作が延々と予告(というより予言に近かった)され続けながら、なかなか発売されず、僕らの渇望を煽っていた。そして、12インチ・シングル「ディス・イズ・ノット・ア・ラブ・ソング」が遂に発売される。突如ディスコ風のサウンドを取り入れ、僕らを唖然とさせた。まあ、そこまではよかったが、直後にギターのキース・レヴィンが脱退(もしくは解雇)。レヴィンは、PILの独創的な音楽の中心だっただけに、彼が抜けたPILは、もうロック死後の世界をリードできるようなものは創れなかった。[コマーシャル・ゾーン]は、「ディス・イズ・ホヮット・ユー・ウォント・ディス・イズ・ホヮット・ユー・ゲット」に改題され、ディスコとファンクサウンドの寄木細工になっていた。預言書を 開いてみれば 漫画本、という次第。

ライドンの毒舌は、その後も勢いを失わなかったが、初来日でその肥満体を見せつけ、鋭さの欠けた寄せ集めのバックバンドの伴奏では、カリスマ性と伝説が音を立てて崩れていった。もし、彼自身の既成イメージに対するさらなる破壊を、彼が意図していたのだとしたら、その成果は絶大だった。しかし、どこのバンドでも繰り返されている内紛劇がきっかけとなった神話の崩壊では、有り難味は少ない。

その後のPILの作品では、「アルバム」というアルバムでハードロック・サウンドをアナクロニズムとして意図的に取り入れたのだが、既に発想そのものが、アナクロニズムに陥っていた。彼の面目躍如たるところを見せつけられたのは、PILの作品ではなく、ヒップホップ界のアフリカ・バンバータとデュオを組んで制作した12インチ・シングル、「ワールド・ディストラクション」1枚のみだった。米レーガン政権米国第40代大統領、ロナルド・レーガンの政権。80年代を通し「強いアメリカ」の復権を標榜して軍拡路線を邁進。対外強硬政策でソ連を疲弊させ、中米諸国には軍事介入を続けたを皮肉り、しかもヒップホップという当時としては新進の音楽を取り入れることで、僅かながらの輝きを取り戻したのだが、そこまでだった。

バウハウスは、蝉よりも早く、その短い一生を終えていた。ある日、いつものようにUKエジソンへ出かけると、ホワイトボードに殴り書きされた「バウハウス解散」の文字が、目に飛び込んできた。そこらのアイドルの追っかけのように、僕も「こんなのは嘘だ」と撥ねつけたが、聞きたくないニュースが真実だったというのは、よくあることだ。直前に行われた、今考えると奇跡的な日本公演を観に行ったあとだっただけに、力が抜けた。結局、バウハウスには、ゆりかごから墓場まで付き合ったような感じだ。

キンクスは、「カム・ダンシング」の一発ヒットを残し、あとは我が道を行くという、相変わらずの姿勢だった。70年代末のパンクに刺激されたのか、ギターをメインにしたストレートなロックに回帰するとともに、アルバムもロック・オペラの手法から、普通の楽曲構成に戻っていた。

僕や友人たちは、キンクスのそうしたサウンドには馴染めなかった。もちろん、彼らこそハードロックの創始者なのだが、物憂げなメロディや演劇的な構成に親しみを感じていたこともあり、80年代のキンクスは、寄り付き難く面白みも欠けていた。熱い緑茶が飲みたかったのに、冷たいコーラを出されていたようなものだ。

「カム・ダンシング」は、ふと、以前の面影を覗かせるような曲だった。以降少しずつ、そんな感じの曲が増えてはいったのだが、アルバム毎に1、2曲といったところ。僅かばかりの貴重品を見つけては、気分を慰めていた。その中で出色の出来だったのは、ライブアルバム「ロード」にスタジオ録音曲として収録されていた、同名の新曲だった。彼らの長い音楽活動の“道のり”を振り返った歌で、しかも僕らが懐かしいと感じる、キンクス独自のメロディが流れていた。

僕が求めるものが、思い通りに手に入ることもあれば、期待外れや裏切られることも多かった80年代。音楽なんて、そんなものに過ぎないかもしれない。それでも僕は、音楽を心の糧にしていた。友人たちとも、求めるものが与えられるとは限らない音楽に対するもどかしさを、酒の肴にして楽しんでいたような気がする。

日本語とロック

自動車工場を辞めると決めた後、そのちょっとした解放感の中で、僕はある音楽と出会った。

友人たちは、やはり洋楽専門で、日本のロックは、どちらかというと見下していた。確かに、英語の歌詞を交えてカッコつけようとする日本語のロックは、歌謡曲と同じで、どこか洋楽に対して卑屈な感じがする。とはいえ、他人が否定すると、応援したくなるのが僕の天邪鬼な性分だ。また、当時は日本のインディーズレーベルも活況を呈し始めた頃で、「ラフィンノーズ」というパンクバンドが、やたらと強いメジャー志向を持って、台頭しようとしていた。

ラフィンノーズは、結局メジャーにはなりきれなかったが、そんなインディーズブームもどこ吹く風といった感じで、すでに1977年から続いている日本のパンクバンド、「スタークラブ」のアルバムを、僕は友人宅の近くのレコード店で見つけ、彼らに対する対抗意識も少しあって、そのアルバムを買ってみた。

スタークラブは、まさにゴリゴリのパンクバンドで、「未だに古臭いパンクを演っているのか」というアナクロニズムとして、冷ややかな評価しか友人たちはしなかった。また、歌詞も、リフレーンには英語を散りばめた、いかにも日本人的なもの。ただ、1曲だけ、「十代の挑戦(アグレッシブ・ティーンズ)」という、日本語主体のものが収録されていた。それは、学歴社会に反抗する十代の心情を、自伝風に謳いあげたものだった。キンクスの「不良少年のメロディ」とも、そして僕自身の人生とも会い通じる内容だった。

英語で、訳詞を介して伝わるのではなく、直接日本語で語りかけてくる歌。以前にも、「モッズ」や「スターリン」といった日本のバンドを僕は聴いてはいたが、日本語のロック、日本のロックバンド、パンクバンドに対する関心を、この時から強く持つようになった。

同じ頃、音楽誌で偶然「ブルーハーツ」というバンド名を目にした。そのシングルが近くインディーズで発売されるという。なぜ、このバンド名に関心を持ったのかは忘れてしまったが、よほど気になったのだろう。御茶ノ水のディスク・ユニオンまで、シングルを買いに出かけた。「人に優しく」という、不思議なタイトル。ステレオのターンテーブルで針を落とすと、スピーカーから飛び出してきた音と叫びに、僕は度肝を抜かれた。

音は、「白い暴動」の頃のクラッシュを思わせる、まさに荒削りのパンク。しかし、どこかメロディアス。それよりも驚くべきことには、B面の「ハンマー」という曲も含め、歌詞がすべて日本語だったことだ。いや、日本語だけ、というそんな単純な、言語学的レベルのものではなかった。それが、心に伝わる歌になっていたことだ。しかも、英語を意識したような言い回しではなく、普通の言葉が、普段会話しているような言葉が、そのまま歌になっている。「がんばれ」なんて言葉が、パンクロックに乗るとは思いもよらなかった。

友人たちは半信半疑で、キワモノのように見ていたが、やっと日本語のロックが、しかもパンクの姿で誕生したことが、僕にはうれしかった。まあ、僕の趣味が世に認められることはほとんどなかったので、ブルーハーツもマニア受けで終わると思っていたのも事実だ。日本の音楽シーンで、彼らがパンクをメジャーの一角に引き上げることになろうとは、僕は夢にも思わなかったことを、白状しておこう。後にカラオケで、「TRAIN-TRAIN」を歌う自分の姿も、当時は予想もできなかった。

中断期間

そんな、日本語ロックとの邂逅も、程なく中断されることになる。自動車工場を辞め、御茶ノ水の画材店でアルバイトをしていた87年4月、僕はフィリピンへ旅行した。彼の地の労働団体の招待で、交流プログラムに参加したのだ。マニラ、セブ島、レイテ島など、現地の鉱工業施設や労働組合を巡り、5月1日はマニラでのメーデーに参加し、来賓の一員として壇上に座っていた。

日本の工場での体験で、社会に対する幻滅を感じていた僕は、このフィリピン旅行でもう一度目を覚ますことになった。第三世界の労働者たちの熱気に、僕はじっとしていることができなくなった。また、音楽を含め、今までこだわってきたものが、何だか矮小に思えてしまった。こうした態度を、事大主義というのだが、フィリピン熱に浮かされた僕は、とりあえずほとんど物を捨て、ある団体の専従活動家になった。そのとき、レコードはすべて売り払い、ステレオも友達にあげてしまった。今考えると、PILの缶入り「メタルボックス」をはじめとして、今では入手不可能なポジティブ・パンクや英インディーズシーンの12インチ・シングルといった貴重な品々を手放してしまったことは、残念で仕方がない。しかし、その時は、場所を取る無用の長物、ただの塩化ビニール盤にしか過ぎなかったのだ。

まあ、音楽に対する多少の未練は残っていたようで、高校時代に買ったステレオカセットレコーダーだけは手元に残し、録音してあったテープをたまに聴いていた。また、どうしてもブルーハーツが聴きたくて、カセットテープ版のファーストアルバムを買っていた。昔は、レコードのほかに、カセットテープでもアルバムがリリースされていたのだ。「リンダ・リンダ」や「終わらない歌」なんていう初期の名曲を、テープが伸びるまで、繰り返し聴き込んでいた。

復活

さて、そんな中断期間も、熱が冷め、1年もしないうちにリタイアしてしまった。その団体の時代遅れなスターリニスト的政治姿勢が、まったく馬鹿馬鹿しいことに気づいた、というのも理由のひとつだ。ソヴィエト連邦ではペレストロイカ、グラスノスチ1985年にソヴィエト連邦・共産党書記長に就任した、ミハイル・ゴルバチョフが進めた改革政策。停滞した経済を立て直す(ペレストロイカ)ため、硬直化した計画経済の改革とともに、ソ連邦史の見直しを含む一定の政治的自由化(グラスノスチ)を認めることによって、ソヴィエト社会の活性化を図ろうとした。対外面では、シェワルナゼ外相とコンビを組んだ「新思考外交」により、核軍縮の推進や、東欧諸国・中国との関係見直しにも着手。しかし、労働者階級ではなくスターリニスト共産党機構に依拠した「上からの革命」は、改革派と保守派の間で逡巡し、結果として労働者国家・ソヴィエト連邦を崩壊させ、革命を資本主義に売り渡すこととなった。といった政治・社会変化が加速していたこの時代、社会への関心を失ったわけではないが、その見るべき方向、立つべき立場を、僕は大きく変えていた。専従活動からは足を洗い、再びアルバイト生活に戻った。

当初、コンタクトレンズ店のアルバイトに就き、なぜか近所の大学の購買コーナーに配属されたりしていた。そこの店内有線放送で、どう考えてもブルーハーツと思われる曲を耳にした。実際、「キスしてほしい」という彼らの曲だったのだが、一回聴いた限りでは歌詞も分からず、誰にも確かめることがでなかった。「ああ、あの曲が聴きたい」と、悶々としていたことを思い出す。

ほとんどの家財道具を売り払うか譲ってしまっていたので、身一つで実家に帰り、音楽を聴く手段としては唯一、カセットテープレコーダがあるだけだった。折しも、時代はレコードからコンパクトディスクに移り変わろうとしていた。吉祥寺なんかに行かなくとも、我が街・北浦和にもディスク・ユニオンが出店し、CDコーナーが次第に増殖していく。しかし、まだ経済的余裕がなく、CDプレーヤーを買うことができない。

そうこうしているうちに、給料の安かったコンタクトレンズ店に変わり、以前働いていた御茶ノ水の画材店に、運よくアルバイトとして復職することができた。やや技術的な仕事だったので、時給も上がった。そして、御茶ノ水も駅周辺にレコード店が点在し、輸入盤CDが多量に陳列されている。まだ、僕の生計におけるペレストロイカは完全ではなかったけれど、とりあえず2万円ぐらいのCDラジカセを買い、再び音楽を聴く環境を手に入れた。同時に買ったCDは、ブルーハーツのセカンドアルバムと、ストラングラーズのライブアルバム。ブルーハーツはもちろんだが、ストラングラーズがキンクスの曲をカバーしていたので、興味津々だった。しかし、心のそこから聴きたいと熱望してCDを買ったのは、このときが最後かもしれない。ほんとうに、音楽に飢えていた。

時はバブル経済全盛期。音楽も、飽食の時代。洋楽の分野で、何か新しい潮流を探そうという意欲を持たせるほどのものは、最早存在せず、洋楽も産業としてぶくぶく太っていた。

かのストーンズが初来日することになったが、清涼飲料水メーカーとタイアップによって、バンドイメージも水ぶくれしていた。しかも、犬も杓子もストーンズ、ストーンズ、と騒ぎ、チケットはうなぎ上りにプラチナ化していく。いったい、どこに、これだけのストーンズファンが隠れていたのだろう。バブル時代に突如、「ボジョレー・ヌーボ」などというフランスの初物ワインをありがたがる風習、というか宗教が発生したが、高価な舶来品を崇拝する風潮に、ストーンズも見事に迎合してしまった。これが、バブル時代なのだ。

77年にクラッシュは、「1977」という曲で「1977年にはエルビスもビートルズもローリング・ストーンズもいらない」と、パンクの心意気を高らかに謳い上げていた。僕は、このリフレーンを真に受けて、ストーンズの音楽を既に否定していたが、80年代後半から90年代の初頭にかけ、旧い世代の音楽の終焉を実感した。

そんな時代、僕は、ただ失ったレコードのコレクションを、CDで再び揃え直すことに腐心していた。もちろん、コレクションからストーンズやフーは除外されている。デヴィッド・ボウイも、80年代以降は無視した。

キンクス、クラッシュ、ストラングラーズ、バウハウス。これらのバンドは、様々な編集盤もCD化されていて、集めがいがあった。ポジティブ・パンクは、最早、見つからなかった。現在、部屋のケースを見渡してみると、この頃から徐々に集め直したアルバムがほとんどだ。90年代以降の、新しいバンドやミュージシャンのものは、ほんの数枚しか見当たらない。

つまり、洋楽の新しい動きには、メジャーもインディーズも含め、この時期には関心を失ってしまった。その代わりに、ブルーハーツやスタークラブ、その他いくつかの日本のロックバンドに限って、僕は新譜を求めていた。

とはいえ、80年代末は、僕にとって遅れてやってきた青春時代のようなものだった。従来の音楽好きの友人たち、バイト先で知り合った新しい友人たちと、よく酒を飲み、音楽を聴いたり、音楽の話をしたりしていた。音楽や社会を評論した、同人誌を作ったりもした。本のデザインに手を染めたのは、これがきっかけだった。その頃の想い出は、ブルーハーツの曲に焼きついて、今でも懐かしく響いてくる。