introduction
黒住浩司。「くろずみひろし」と読みます。間違っても、「こうじ」とは読まないでください。
「黒住」という姓は珍しく、歴史上の人物としては江戸時代末期に黒住宗忠という神道家がいるぐらいです。尤も、私はそうした宗教とは一切、関わりはありません。名字よりも気に入っているのは、やはり、ふつうはコウジと読ませるところをヒロシとした、名前の方です。これだけは親に感謝しています。「そんなヒロシにだまされて」などという不謹慎なタイトルの歌謡曲がありましたが、私は人をだましたりしません。
しかし、小学生時代、授業で名前の由来を調べてこいと言われ、親に質したところ、「(現皇太子の)浩宮から取った」とのこと。やはり、親は普通の人でした。実際には、「浩宮様」と呼んでいたぐらいですから。他人に(しかも皇族に)由来する名前などというのは、私の自尊心が許さなかったので、学校では、「心のひろい人になってほしいから」と、ウソの報告をしてしまいました。そんな名を持つ私ですから、一筋縄では行かない人生を(いや、まだ半生ですね)送ってきました。
boys be ambitious
early years
私が生まれたのは、1960年代前半。さすがに、第二次世界大戦は日本の敗北でとっくに終わっていましたが、東京オリンピックも、大阪万博も、私の後塵を拝して、歴史に刻まれた出来事でした。「え、今いったい何歳なの?」と驚かれることも多いのですが、顔に皺は少なくても、それだけの人生経験を積んでいます。
出身は残念ながら東京ですが、3歳のときから埼玉県川口市に移り住み、小学校時代のほとんどをそこで過ごしました。川口といえば、「キューポラのある街」として有名なのですが、キューポラが鋳物工場独特の煙突であることも、吉永小百合が主演した同名映画があることも、若い人は知らないでしょう。そう、もう若くはない私は、今も麗しい吉永小百合のファンです。そうしたファンを、「サユリスト」なんてイデオロギッシュに呼んでいたのは、私よりも少し年上の、いわゆる「団塊の世代」の人たちです。ちなみに私たちは、「新人類」と呼ばれた世代です。
その幼き新人類が生息していた川口も、町工場の煤けた雰囲気はもはやなく、今や高層マンションが建ち並ぶ垢ぬけた街に生まれ変わってしましました。そんな、現在の川口よりも、メタンガスが湧き上がる黒い川や、木造のバラックのような団地に囲まれ、わずかな空き地の草むらをジャングルと勘違いして探検していた1970年代初頭を思い浮かべると、目頭が熱くなります。
in the library
その後、同じ埼玉県の浦和市へ移り、市民歴はすでに四半世紀を超えています。とはいえ、引っ越し当初(から3年ぐらい)は、あまり新しい環境には馴染めず、その時期と重なる中学時代には、あまり楽しい思い出は残っていません。特に3年生の頃は、あまり友達とも付き合わず、図書室で毛沢東や中国革命史を調べたりして過ごしていました。
まあ、この中学校には受験して入学したのですが、小学校時代は神童でも、周辺の秀才(天才は私以外にはいませんでした)を取り揃えた国立大学附属中学校では、成績面で私はただの人になってしまいました。結果として、高校進学に係わるような受験科目の勉強は、ますます嫌いになっていったのですが、失敗は成功の母と言うように、そこには新たな可能性が生まれていました。
そんなに大仰なことでもありませんが、今まで仕方なくやらされてきた勉強から、自ら進んで学びたい分野を発見したのです。それが、図書室への入り浸りにつながっていきます。すなわち、社会科学という分野に、関心を持ったのです。社会科学といっても漠然としていますが、歴史、哲学、思想、政治といった重みのある知識です。時代は、次第に軽薄で上っ面ばかりのものに進み、現在に至っているわけですが、私の世間からの乖離は、ここから始まったのでした。
abraxas
中学時代は、まだ卵の中で孵化を待っていたようなものでした。高校に行けば、何かが変わると思い、自由な校風で知られる地元の県立高校に進学しました。ちょっと学のあるところを見せびらかすために、この頃の気持ちを、或る小説の一節に代辯させてみましょう。
「鳥は卵からむりに出ようとする。卵は世界だ。生まれようとする者は、ひとつの世界を破かいせねばならぬ。鳥は神のもとへとんでゆく。その神は、名をアプラクサスという。」(ヘルマン・ヘッセ「デミアン」より)。
入学後は、新聞部や社会科学研究部で何かと騒ぎを起こし、一方で生徒会長になるなど、学んできた知識の社会的な実践に、一生懸命でした。たった2年と2カ月の間でしたが、今でもこの僅かな期間が、人生で(半生で、くどいですね。反省しています)最も輝かしく、心に焼き付いています。自らを獲得した時期と場所が、浦和という地であったことから、私の中で浦和は聖地としての地位を獲得しました。
さて、「2年と2カ月」という表現は、語呂合わせにしても、高校時代の尺度としては中途半端に感じられたかもしれません。しかし、これは事実なのです。社会意識に覚醒する中で、私は世の中の矛盾に敏感になり、行動に表していきました。一方、重大な矛盾の一つである「学歴社会」に対しては、それを冷笑しつつも、しっかりと取り込まれてしまっていました。中学も受験、高校は自由と言っても進学校、そして大学受験も既定のコース。文句を言いつつも、その軌道のままに進むことに対し、私は無自覚でした。とはいえ、2年も叛逆の高校生を演じていれば、無自覚を自覚するようになるのが道理です。そして私は、学歴社会への反発として埼玉県立浦和西高等学校を、入学から2年2カ月後に中退しました。
こんな私に活躍の舞台を提供してくれた“母校”を、今でも愛しています。また、中退したことを誇りとして、他校に再入学したり、大学検定を取ったりするようなことはしませんでした。ですから、私の学歴は、今も輝かしく「高校中退」のままなのです。
against the trend
in a word
社会人としての最初の一歩は、自動車工場の労働者でした。自動車の組み立てラインで、5年間、文字どおり汗と油と防錆剤(と、ついでに埃も。あの埃、アスベストじゃないだろうなぁ)にまみれていました。続いて写植オペレータ、画材店店員、求人広告制作会社社員、なぜか求人広告制作会社役員なども経て、1990年代半ばにデザイナーとして独立した、というのがひととおりの流れです。
“社会人”としての年月は、幾星霜というほどではないにしても、既に四半世紀を経過しているので、一言では言い表せるものではないのですが、古事記か日本書紀に出てくる「一言主の神」は何でも一言で済ませてしまうそうなので、それに倣います。
もちろん、私は日本という国やその歴史に、何ら敬意は持ち合わせていないので、日本の古代神話を持ち出すのは不謹慎と後ろ指を指されるかもしれませんが、実は社会科学の一環として、民俗学も研究対象にしているのです。つまり、歴史資料として、神話を取り扱っているにすぎません。そこには、心理学の要素も係わってくるのですが、このように学校へ行かなくても、自ら学ぶ意志と共に、人生というそれなりの授業時間を経過すれば、様々な知識を駆使できるようになるのです。
それはそれとして、顧みると私の半生は、私の座右の銘でもある「造反有理」のひとことでした。
anti-creator
現在、私の職業は、フリーランスの「編集デザイナー」および「テクニカルライター」ということになるのですが、その肩書きを名刺に書き込んでからすでに幾星霜。さらに、職業訓練校の「講師」が追加されたのも、「一昔」という歴史的単位が使えるぐらい前のこととなりました。
世間には、こうした肩書きの職種に憧れ、“クリエイター”という神々しい啓示を受け取り、恭しく跪く方もいらっしゃるかもしれません。しかし私は、それはクリエイターという言葉の濫用でしかないと思っています。「帝国」流に論じれば、知的労働が主流を占めるようになった産業社会の言説、すなわち、権力の生政治的戦略ということでしょうか。いずれにしても、私はクリエイターという肩書きは嫌いですし、もちろん、私はクリエイターではありません。私は趣味や仕事でイラストを描くこともあるので、「イラストレーター」くらいは名乗ってもよいかなと思っています。この”イラストレーター”も、アルファベットの”Illustrator”とは縁もゆかりもありません。いや、Illustratorの講義を担当することもあるので、全くの無関係ではありませんが、私の使う道具は、知る人ぞ知るCorelDRAWです。
そして絵の題材は、もっぱら猫です。8年前、世界一可愛い猫のハナちゃんと出会いました。残念ながら、ハナちゃんは5年前に亡くなり、今は小太郎、小次郎という猫と暮らしています。この44年間、さまざまな人間との出会いがありましたが、ひとりを除いて、ハナちゃん、小太郎、そして小次郎との出会いとは、比べものになりません。そんな猫たちを描くこと(「猫」と「描」は似ています)が、私の芸術的関心の大部分を占めています。