第2章

魅惑と幻惑に彩られた出発

80年代前半

ルーツを求めて

高校1年の冬休み。大晦日の夜、僕は同じクラスの友人と与野駅前に集合し、母校周辺を巡る「夜間行軍」に出発した。年が明けても、僕らは真っ暗な田圃や神社をうろついていた。これが、80年代の幕開けだった。

80年、新聞部の友人との出会いによって、音楽、ロックに接するようになった。そして、間もなく音楽とは、僕にとって切っても切れない間柄となった。

翌81年、僕は高校を中退した。学歴社会に異議を申し立てながら、その一方で大学へ進学することは、自分の良心に対する裏切り行為だと思えた。

そうした学歴教育を風刺した「エデュケイション」を含む、キンクスのアルバム「不良少年のメロディ ~愛の鞭への傾向と対策~」は、後になってから聴くことができた。このアルバムからは、当時に遡って郷愁を感じたりするのだが、それがあろうとなかろうと、僕は中退しただろう。結果として、僕の行為に対し「不良少年のメロディ」は、美しい伴奏を付けてくれた。

さて、中退後の僕は自動車工場の労働者となり、単純作業の繰り返しに明け暮れることとなった。その一方で、社会人として収入を得られるようになり、ステレオを買い替え、レコードの本格的な収集が開始された。また、工場の近くで一人暮らしも始め、重労働の傍らで、音楽が生活の重要な一角を占めるようになった。まさに、音楽と同棲するようになったわけだ。

そんな80年代の初め、81年の後半から82年ぐらいの間は、60年代という過去まで遡り、ロックミュージックのルーツを探求していた。

60年代の音

キンクス、ストーンズ、フーは、1963年ごろから活動を開始し、特にストーンズはリズム&ブルースという黒人音楽が背景にある。僕は、黒人音楽にそれほど興味はないので、リズム&ブルースの曲で占められたストーンズの初期のアルバムは、退屈だった。

ロックンロールといっても色々な傾向があり、十人十色だが、派手なギターの音と甲高い歌声を主体とした、白人中心の「ハードロック」もしくは「へヴィメタル」といったジャンルもある。それは、言ってみれば70年代(どちらかといえば後半)の音だった。僕が、漠然とロックとして考えていた音は、どちらかといえば白人的サウンドのほうだった。しかし、髑髏だとか悪魔風のゴテゴテした意匠で塗り固められたアルバムジャケットを見てしまうと、ハードロック/へヴィメタルバンドには手を出す気分にはなれなかった。

直径30センチのLP盤を包む当時のアルバムジャケットは、当然、30センチ四方の正方形をしている。現在のCDジャケットとは違い、その絵や写真には迫力があった。ハードロック/へヴィメタルバンドのジャケットは、恥ずかしいほど派手だったのだ。

後に、日本には、悪魔を自称するデーモン小暮氏率いる「聖飢魔Ⅱ」というヘヴィメタルバンドが登場したが、彼らはそのイメージをデフォルメし、幾分ギャグの要素として、ヘヴィメタルを対象化していた。お茶目なヘヴィメタルは笑えるが、真面目に叫ばれては耐えられない。まあ、僕の個人的感覚に基づく感想に過ぎないが。

ハードロックは、自分自身の音楽やイメージを、特定してしまう、もしくは限定する方向へ進んだ。それは、70年代という社会の閉塞状況の反映かもしれない。60年代は、世界的に若者文化が社会の主役として台頭し、政治的な社会活動も活発化した。その反動で、70年代は収束と停滞を迎えた。日本も、世界全体も、似たような状況にあった。少なくとも、僕の目にはそう映っていた。だからこそ、60年代のロックに、僕は憧れを覚えたのかもしれない。

ストーンズの「サティスファクション」という曲は、この社会に「満足できない」ことを象徴した歌であり、時代の代表曲とされていた。フーにも、「マイ・ジェネレーション」という世代の気分を代表した曲がある。

実際のところ、彼らが社会的内容を直接歌に反映したものは、数少ない。たいていは、他愛のないラブソングか、セックスを暗示させる扇情的なものがほとんどだ。その意味では、ハードロックの連中とも大差はない。

しかし、時代の影響が、それらもひっくるめて、彼らの音楽を反逆者の旋律に高めたのだ。時代に大衆は幻惑され、大衆も時代を幻惑した。その余波に、80年代の初頭だというのに、僕も影響されたわけだ。

キンクス

ところでキンクスは、「ユー・リアリー・ガット・ミー」「オール・デイ・アンド・オール・オブ・ナイト」といった初期の曲で、ハードロックやパンクロックにも繋がる、ロックンロールの音楽的基礎を築いた。黒人音楽風ではない、ギター主体の音を、単純に繰りかえしながらも激しく揺さぶる、言葉通りのロックンロールを演奏した。

しかし彼らの音楽は、次第にそうした音から遠ざかり、優しく穏やかな、そしてどこか物憂げなメロディに変貌していく。ギターをかき鳴らしながら、日の出の勢いのような曲を演奏していたのに、次第に夕暮れの薄暗がりに引きこもって行ったのだ。

また、「ロック・オペラ」という形式で、アルバム全体をひとつのテーマを演じるようになる。歌詞の内容も、(たぶん、イギリス人の)日常生活の細々した事象をオブラートにして政治的な風刺を包んだ、手の込んだものになっていく。時代の風潮に背を向けながらも、その中身や精神はしっかりと捉えていた。

音は優しくとも、バンドの姿勢、とりもなおさずリーダーのレイ・ディヴィス(Ray Davies)の創作意欲は、音楽業界の主流に対し意図的に背を向けるものだった。何の意味もない歌を歌うのではなく、皮肉とユーモアで社会状況について語りかけてくる。穏やかな音の中に、忍ばせて。60年代後半の、サイケデリックなヒッピー文化が蔓延した頃には、初期の名作「ヴィレッジ・グリーン・プリザベーション・ソサエティ」を制作。イギリス田園風景への愛着と郷愁を、フォーク風のサウンドで奏でていた。70年代前半には、“プリザベーション”のテーマを発展させ、伝統や環境を守る住民と開発業者との間の闘い、抵抗運動が新たな独裁者を生む歴史の蓋然性、といったテーマを織り込みながら、「プリザベーション第一幕」「第二幕」というロックオペラ・アルバムを制作。このオペラに登場する悪玉開発業者の生い立ちが、実は「不良少年のメロディ」だったという重層的なストーリー展開を、レイ・ディヴィスがほぼひとりで、まとめあげていた。時流に乗らず、頑ななまでに自分の世界を表現することに没頭するレイは、徹底した反骨精神の塊だった。僕の、同類なのだ。それゆえ、キンクスとレイ・ディヴィスは、今でも僕のアイドルなのだ。

ともあれ、60年代のロックは、僕にとってのルーツであり、また憧れであり、そこから音楽の探求が始まったのだ。しかも、それを81、82年頃という遅れた時代に、しかも足早に済ませて行った。

デヴィッド・ボウイ

もちろん、ルーツの探求は、60年代にとどまらない。キンクス、ストーンズ、フーといったバンドの70年代の足跡も追いかけた。

70年代自体が生み出した、「グラムロック」という潮流にも、僕は興味をそそられた。グラムロックは、今で言う「ビジュアル系」のご先祖様みたいなもので、見掛け倒しのものばかりだが、そのシーンの中心にいたデヴィッド・ボウイ(David Bowie)は、少し違っていた。白塗りの厚化粧、女装や未来風のファッション。その出で立ちはエキセントリックで嘘っぽいのだが、歌には哲学的なテーマがある。

グラムロックの旗手として一世を風靡する前に作られた「スペース・オデティ」「世界を売った男」といったアルバムには、ニーチェの「ツラトゥストラ」ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェが1883~1885年に著した哲学書。人類の超越者たる「超人」への進化と永遠回帰をツラトゥストラに語らせる。西欧キリスト教社会を痛烈に批判し、「神は死んだ」と説く一節が有名を感じさせるものがあり、グラムロックの代表作「ジギー・スターダスト」にもそれは受け継がれ、SF的なドラマ仕立てでロックスターの無常が壮大に謳われる。ロック版「平家物語」と言えなくもない。

しかもボウイは、すぐさま、その音楽スタイルを変えてしまう。グラムロックの延長では、全体主義を風刺したジョージ・オーウェルの小説「1984」を、「ダイアモンドの犬」というアルバムに仕立て、そうかと思うと60年代ポップスや黒人音楽に傾倒し、今度はベルリンに渡って「ロウ」「ヒーローズ」というアルバムを制作して、より硬質な無常の世界を荘厳な音で構築する。さらに、再びグラム風の衣装を纏って「スケアリー・モンスターズ」というアルバムを作ってみたりする。

82年ごろには、そうしたボウイの鮮やかな変身振りを、一気に俯瞰することができた。その変わり身の速さが、彼の伝説であり、その伝説に僕は惹かれていた。

パンクロック

友人からの影響で聴き始めたロック。もちろん、僕の内なる魂に、共鳴する何かがあったからこそ、その影響を受け入れたわけだが、偶然手にしたクラッシュの「白い暴動」が、僕自身でパンクロックを探求する端緒となった。

また、ストーンズの再発アルバムのライナーノーツにも、「パンクの生みの親」として、ストーンズ等の60年代ロックの存在が強調されていた。彼らが親であるなら、その子供たちにも関心を持つのは、至極当然の成り行きだろう。

声質は別として、ギターが主体で、しかも単純な曲調、そして短い演奏時間。音としてはハードロックに近いかもしれないが、もっと単純かつ先鋭な響き。さらに、社会への政治的な反逆を歌詞にしているロック。

音としても、(キンクスを除き)政治的姿勢としても、中途半端な60年代ロックと比べ、パンクロックは、僕の気持ちに訴えるには十分過ぎるものを備えていた。

一般に、パンクの三大バンドとして挙げられる、セックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムド。セックス・ピストルズは、その代表として申し分のない存在だった。既成価値の破壊者として、アナーキストを標榜する「アナーキー・イン・ザ・UK」。その既成価値の頂点に居座る女王を、「彼女なんか人間じゃない」と罵る「ゴッド・セイブ・ザ・クィーン」。この代表曲を引っさげて、あっという間に内部分裂で解散。ボーカルのジョン・ライドン(John Lydon)は、引き続いて「パブリック・イメージ・リミテッド」(Public Image Limited/PIL)というバンドを結成し、パンクやロックンロールすらも既成価値として破壊することを望み、より難解な歌詞と旋律を追求していく。それらがすべて、伝説的存在になっていた。

クラッシュ

クラッシュは、その中心的存在であるジョー・ストラマー(Joe Strummer)は、ジョン・ライドンが暗喩で世界を表現しようとしたのに対し、より直截に政治的姿勢を突いていた。イタリアの極左組織「赤い旅団」の腕章を身につけたりして、顰蹙を買ったこともある。彼自身は、インタビューで「民主的な社会主義」が理想だと語っていたが、そうした信条・心情を伝えるために過激な表現を用いてしまう稚拙さ。そこに、僕は自分自身との共通点を感じた。

イギリスとアルゼンチンがマルビナス諸島で戦争を始めたとき1982年、アルゼンチン沖の大西洋上にあるマルビナス諸島の領有権を巡り戦争が勃発。2ヵ月の戦闘の後、イギリス側が勝利。なお、同諸島の英国側呼称は「フォークランド」、ジョーは英国の世論に反して反戦を訴え、叩かれて失踪したこともあった。明確な主張と、それに耐え切れない弱さ。多くの批評家や、ロックファンも、そんなジョーを嘲笑ったようだ。

また、ジョーの左翼的な政治性、真摯さを、胡散臭く煙たがるパンクロックファンも多かった。そんなファンには、クラッシュよりもセックス・ピストルズのほうが、「カッコいい」らしい。しかし、同類相憐れむということかもしれないが、僕と同質の人間性を感じるジョー・ストラマー、彼のクラッシュこそ、僕にとってはパンクの代表バンドなのだ。

そのクラッシュも、“パンクとは姿勢であり、変わり続けることだ”と主張して、音楽スタイルを大きく変貌させていった。ストレートなロックンロールに近づきつつ、次第にレゲエ(ジャマイカで生まれた黒人音楽。ボブ・マーリーなどによって知られるようになり、ロックにも影響を与えた)を取り入れ、例の三枚組「サンディニスタ」では、レゲエの実験音楽が全面的に展開されている。

さすがに、このあたりは僕も聴くのが辛かった。リズム&ブルースにしろ、レゲエにしろ、僕は黒人音楽には大した興味がない。第三世界に目を向けるジョーの姿勢を、政治的に理解することはできるのだが、感性的には、僕はよりロックンロールに近い音が好きだった。

三枚組の次は、さすがに分量もコンパクトになり、「コンバット・ロック」という1枚のアルバムに収められた。そして歌詞や曲調は、より内省的でナイーブなものが増えていった。このアルバムが出る直前に、クラッシュは来日。僕は2回、その公演に足を運んだ。

それまでのクラッシュの歩みは、やはり過去のものとして、一括して情報が耳に入ってきたのだが、日本公演と「コンバット・ロック」で、僕は初めてリアルタイムのクラッシュと接することができたわけだ。ところが、その後クラッシュは空中分解し、1枚のアルバムを残して解散してしまう。

ストラングラーズ

クラッシュが、その初期からあまりの政治性で敬遠されていたとすれば、より音楽的に楽しいバンドとして、御三家の一角にダムドがいた。代表曲「ニュー・ローズ」は確かにカッコいいのだが、僕は、軽薄そうな彼らにあまり興味を持てなかった。僕が三大パンクバンドを選ぶとするなら、ダムドを外して「ストラングラーズ」(The Stranglers)を入れるだろう。

ストラングラーズは、1974年ごろから活動していたらしいが、76年のパンクムーブメントに乗って、一気に頭角を現した。しかし、その存在も音楽も、異彩を放っていた。「野獣の館」と題したファーストアルバムには、猟師みたいにむさくるしい4人のメンバーが写っている。

80年代初めには、既に5枚ぐらいのアルバムが出ていたが、3枚目には「三島由紀夫に捧ぐ」という曲があった。三島由紀夫戦後を代表する小説家の一人だが、「楯の会」という右翼団体を組織し、自衛隊・市谷駐屯地に乱入してクーデターへの決起を訴えるも受け入れられず、その場で割腹自殺の耽美的な小説は欧州でも有名で、それにかぶれた右翼もどきのバンドかと思い、見た目の異様さも手伝って、最初は敬遠していた。4枚目のアルバムには、大鴉の立体写真が貼ってあり、ほんとうに何のバンドだかよく分からなかった。

しかし、パンクバンドのひとつとして必ず名前が挙がっていたので、怖いもの見たさでセカンドアルバム「ノー・モア・ヒーローズ」を買ってみた。このジャケットも、西洋の葬式に使うような赤い花輪の中に鼠がいる、というデザインだ。その音は、ほんとうに野獣のように唸る歌声、それを煽るかのようにやたらと大きな音を出すベースギター、そんな激しい曲にオルガンの美しい音色が絡みつく、といったほかのパンクバンドの粗野な音楽とは一線を画すものだった。しかも、「もうヒーローはいらない」というスローガンは、パンクの精神を見事に体現していた。

普通のパンクバンドがカミソリのような鋭さだとすれば、ストラングラーズは出刃包丁か肉切り包丁で骨ごと砕くような、そんな荒々しさだ。その上で、力強さと繊細さが、音楽そのものの中で表現される。美女と野獣、といった好対照を成す取り合わせは、その意外性とは裏腹に、お互いが調和して「物語」となるわけだが、ストラングラーズの初期の音楽は、そんなストーリー性を備えた魅惑的なものだった。すぐに僕は、彼らの虜となった。

そしてストラングラーズも、やはり音楽性が大きく変化し、80年代初めには耽美的傾向を強めていた。その方向性も、僕の興味を惹いた。

僕にとって、バンドの姿勢だけでなく、音楽性そのものに磁石のように引き寄せられたのは、パンクバンドの中ではストラングラーズが唯一の存在だった。

限りある情報を求めて

80年代の前半は、まだ洋楽のロックは、さほど日の当たる存在ではなかった。邦楽では歌謡曲が幅を利かせ、演歌もまだ衰退してはいなかった。ちょっとお洒落を気取りたい人、人との違いを際立たせたい人は、「ニューミュージック」といういい加減なジャンルに傾倒していた。

洋楽のロックを聴いている存在は、特に自動車工場の中では、際立つどころか異質だった。ストーンズぐらいの名前は知っているが、普段、そうしたバンドの曲を聴く人は皆無。しかも、パンクバンドなんて、うるさい騒音でしかなかった。

まだミュージックビデオや、それを流す番組も限られ、MTVも埼玉では電波が入らない神奈川のUHF局の一番組に過ぎなかった。唯一、テレビ朝日で放映されていた「ベストヒットUSA」という番組が、洋楽ロックの情報源として貴重な存在になっていた。

小林克也氏の軽妙なDJぶりは今でも懐かしいが、アメリカの「ラジオ・アンド・レコーズ」誌という、聞いたこともない情報源を基にした、しかも全米ヒットチャートの紹介なので、僕の好きなバンドやミュージシャンがベスト10にチャートインすることは、ほんとうに稀だった。せいぜい、ストーンズの「スタート・ミー・アップ」という曲が、なんとか10位前後に顔を出し、当時はそれだけで僕自身が世間に認められたような気分になっていた。もちろん、僕(の趣味)を世間は受け入れないことのほうが、ほとんどだったが。

番組の中に「タイムマシーン」というコーナーがあり、そこでは60、70年代の古い曲を、毎週1曲、放映していた。チャートよりも、僕はこのコーナーに期待していた。まあ、ストーンズの古い曲はそれなりに見ることができたが、キンクスに出会うことはなかった。

ヒットチャートの上位に、マイケル・ジャクソン、ホール&オーツ、ヴァンヘイレン、シンディ・ローパーとかが常連になってきたのは、82年ぐらいだろうか。その頃には、MTVという存在がクローズアップされ、洋楽のミュージックビデオを流す番組も増えてきた。最近、テレビショッピングで80年代の洋楽ヒット曲を網羅したベストアルバムをよく見かけるが、その80年代ポップス「黄金時代」の幕開けだった。イギリスからは、デュラン・デュランやカルチャー・クラブといったバンドが、メジャーに台頭し始めた。時代も、バブル経済絶頂期へと、足を踏み出した。歌謡曲や演歌は駆逐され、洋楽ロック、ポップスが全盛期を迎えた。歌謡曲もしくはニューミュージックは、Jポップへと衣替えし、後に息を吹き返すことになる。まさに、歌は世につれ世は歌につれ、変わっていくのである。

僕が聴いていたメジャーな存在としては、ストーンズがそれなりに脚光を浴びていたが、90年代に入ってからの肥大化した人気には、まだ達していなかった。それに、ストーンズにも、僕は既に見切りをつけていた。僕にとって、80年代前半のヒットチャートでの唯一の収穫は、キンクスが突如送り込んだ、「カム・ダンシング」を聴けたことだ。

主要なチャートには、僕が聞くような音楽は入っていないことを、実感させられた80年代黄金時代。メジャーな曲こそが、洋楽として定着していった。そこでの疎外感は、ちょっとした優越感にも転化する。「僕は、一般人とは違うのさ」、と。今でこそ、CMで当時のメジャーな曲を耳にすると、歳のせいか懐かしさも幾分感じるが、当時はそうした音楽を嫌悪していた。洋楽情報は、バブル経済と同じように膨張する一方だったが、やはりバブル経済と同じように、僕が得られるものは少なかった。

一方で、マイナーな曲も紹介する音楽番組も増え、そうした中で貴重な映像に接することを、宝くじにでも当たることを待つかのように、期待していた。しかし、所詮は宝くじ。当たり外れは大きい。いや、外れのほうが大きい。だからこそ、当たりのときは飛び上がるほどうれしいし、また、ちょっとした幸運で巡り会った音楽とは、深い仲になることもある。

UHF局のテレビ埼玉で、突然、「パンクロック最前線」(「ロンドンパンク最前線」だったかもしれない)という一回きりの特番が放映された。その番組で、初めて主要パンクバンドのライブ映像や、ミュージックビデオを見ることができた。今でこそ、そうした映像は珍しくないが、セックス・ピストルズ、PIL、クラッシュ、ストラングラーズなど、当時は滅多に観られなかったものが、惜しげもなく放映された。後にも先にも、こんな豪華な番組に出会うことはなかった。特に、ピストルズ解散後にPILを結成したジョン・ライドンは、既に伝説的存在になっていたものの、その鬼気迫る映像で、いやがうえにも神話的存在にまで登り詰めていった(その後、ビール腹を見せた初来日の公演で、伝説の神殿から無残にも転げ落ちたが)。

また、テレビ東京あたりで、夜11時ごろ、2、3曲のミュージックビデオだけを流す番組があった。偶然、そこにチャンネルを合わせていたとき、「テレグラム・サム」という異様にカッコいい曲が流れ、ただそれを観ただけで、僕は打ちのめされた。演奏しているバンドは、「バウハウス」(Bauhaus)というらしい。早速、近所のレコード店で、彼らのセカンドアルバムを買った。それしか、売っていなかったからだが、「テレグラム・サム」はシングル盤のみらしく、どのLPにも入っていないという情報だけは掴めた。

「テレグラム・サム」という曲は、70年代グラムロックの代表バンド、「Tレックス」の名曲だそうなので、そのオリジナルも聴いてみたが、最低だった。バウハウスは、ジェット機のようなスピードで、しかも洞窟で蝙蝠が飛び交うような陰鬱さで、曲をアレンジし直している。彼らのデビューシングルは「ベラ・ルゴシの死」というタイトルで、往年の怪奇映画俳優を題材にしたものだった。怪奇物から美的センスを抽出するのは、ゴシック派の特徴だ。ちなみにキンクスも、ハリウッドスターへの回顧としてベラ・ルゴシの名も入った、「セルロイドの英雄」というノスタルジックな名曲を残している。

さて、件のTレックスの原曲は、昼下がりの農道を牛が荷車を引いていくように、のんびりとして退屈だった。「マスク」というバウハウスのセカンドアルバムも、素晴らしい出来だったが、僕は彼らの「テレグラム・サム」を聴きたかった。

輸入盤専門店の巡礼

バウハウスは、いわゆる「インディーズ」と呼ばれる、独立系レコード会社(レーベル)に所属していたため、メジャーなシーンでは、ほとんど取り上げられることはなかった。

クラッシュ、PIL、ストラングラーズなども、メジャーレーベルと契約はしていたものの、歌謡曲やニューミュージックを聴いて育ち、政治的には骨抜きに育てられた日本の大衆にとっては、音楽シーンの主流となるような存在ではなかった。

80年代という時代は、音楽シーンの王道から、こうしたものを脇へ追いやっていたのだ。

そんな時代に馴染めない僕は、やはり疎外感を優越感に変えている、「ロッキング・オン」のような音楽情報誌を読み、それに飽き足らず、当時の英国インディーズ情報が頻繁に取り上げられていた「ドール」「フールズ・メイト」といった雑誌を読み漁り、メジャーシーンにはないものを、追い求めていた。

東京・新宿にいくつかの輸入盤専門店があり、そうした店で英インディーズシーンのレコードを入手することができた。元々、当時は日本語盤がほとんど廃盤になっていたキンクスのアルバムを求めて、「新宿レコード」(今もあるのだろうか?)という店には、よく足を運んでいた。

さらに、音楽誌に載っている広告を調べ、やはり新宿界隈の怪しそう(失礼)なレコード店も探訪した。ビルの1階に、ほんとうにここを開けていいのかどうか逡巡するような、鉄の扉がある。レコードのためだ、えい、と大して必要でもない勇気を振り絞って扉を開くと、売っているレコード以外は、何の変哲もない店(「UKエジソン」という店のことだ)だったりする。

当時の英インディーズシーンでは、30センチのLP盤サイズで4曲ぐらいを収録した、「12インチ・シングル」盤が流行っていた。バウハウスの「テレグラム・サム」やその他のシングルも、この12インチ・シングルで売られていた。PILには、3枚組み12インチ・シングルが缶に入った、「メタルボックス」というアルバムまであった。月に2回ぐらい、その頃住んでいた埼玉・狭山市から、1時間に3本ぐらいの西武新宿線ではるばる出かけ、この宝の山を掘り返していたのだ。

まあ、新宿という雑踏でごった返した猥雑な街を、僕は好きになれなかったので、しだいに目的地を吉祥寺へ移していった。吉祥寺の「ディスク・ユニオン」というレコード店にも、12インチ・シングルなどの輸入盤が豊富にあったからだ。

西武新宿線で東村山まで進み、西武国分寺線を経由して国分寺に出る。そこで中央線に乗り換え、吉祥寺へ。通過点の国分寺線・小川駅に、後に深い縁ができるとは知る由もなかった。乗換駅の国分寺も、今のような駅ビルなどなく、国鉄と西武が同じ改札を使う、小さな田舎の駅だった。まあ、吉祥寺は今も昔も栄えているが。レコード探索に出かける途中の、長閑な路線が僕は好きだった。聴いている音楽とはかけ離れているようだが、一方で、こうした長閑な雰囲気は、60年代後期から70年代中期にかけて、キンクスのアルバムに一貫して流れていた。

感傷はさておき、輸入盤専門店への巡礼を重ねることで、僕にとって初めてリアルタイムの音楽シーンに、遭遇することができた。それまでは、どのバンドやミュージシャンも、創生期に関しては過去を追体験することしかできなかった。60年代しかり。パンクロックもしかり。誕生の瞬間は逃したものの、バウハウスで初めて、まだ創生期の途上にあるバンドに出会えた。さらに、80年代中期には、バウハウスの流れを汲むような、「ポジティブ・パンク」というムーブメントが生まれた。僕は、ちょうどその瞬間に、輸入盤専門店通いをしていた。

所詮、ムーブメントなどというものは、いい加減なデッチ上げだったりする。「ポジティブ・パンク」も、イギリスのインディーズシーンの極一部に、メディアが取って付けたようなジャンル分けだった。何が“ポジティブ”なのか、どこが“パンク”なのか、正しい説明など誰もできなかっただろう。

それにもかかわらず、「セックス・ギャング・チルドレン」(Sex Gang Children)「サザン・デス・カルト」(Southern Death Cult)「ダンス・ソサエティ」(Dance Society)といったバンドが、早くもポジティブ・パンク御三家と称されていたが、音楽性はゴシック風、ハードロック風、エレクトロニック風と三者三様で、さらにそれぞれの追随者が存在するといったような、二つの単語の組み合わせだけで括るには無理のある、混沌としたムーブメントだった。

しかし、いい加減な括りではあっても、その名の下でいくつものバンドが雨後の筍のように、にょきにょき生えてくる。「プレイデッド」「スペシメン」「レッド・ローリー・イエロー・ローリー」「トゥー・フラッグス」「イン・エクセルシス」「サングラセス・アフター・ダーク」「ジーン・ラブス・ジザベル」「フレッシュ・フォー・ルル」、その他諸々。今となっては、曲も思い浮かばないバンド、名前すら思い出せないバンドもある。

その頃の僕は、雑誌の輸入盤新譜情報に目を凝らし、シングルやアルバムが出た、新しいバンドが登場したとなれば、吉祥寺や新宿に馳せ参じていた。日本ではごく一部の雑誌でしか紹介されず、知っている人もほとんどいないムーブメント。本国イギリスでも、結局メジャーになることなく終焉したムーブメントだったが、言ってみれば僕の青春時代の一角で、僕自身と同期して、そこに存在していたのだ。そのこと自体が、エキサイティングだった。