第1章

音楽を聴き始めた頃

80年代以前

ソノシート

子供の頃、家には小さな、おもちゃのようなレコードプレーヤーしかなかった。親には、音楽的趣味が皆無だったようだ。

そのプレーヤーで、僕が聴いていたのはウルトラマンやウルトラセブンの主題歌。しかも、レコードはレコードでも、ソノシート。薄っぺらの、それでもセロファンよりは厚みのある円盤だが、向こう側が透けて見える。

唯一、「怪獣王子」という特撮ドラマの主題歌が、黒い塩化ビニールの、ほんもののレコードだった。そのレコードだけ黒くて硬いことが、子供ながらに不思議だった。とはいえ、大きさはシングル版。

初めて30センチのLP版と出会ったのは、小学校高学年になってからだ。親が買ってくれた、百科辞典についていた、名曲アルバム集。古今東西の、クラシックを中心にした、いわゆる教育的な楽曲を集めたものだった。小学校の頃は、僕もそれなりに秀才だったので、知的教養と情操を磨くために、全10巻の辞典と名曲集が、買い与えられたのだろう。しかし、そこからの投資効果を期待するには、音の演奏環境があまりに脆弱だった。

名曲集は4、5枚、もしくはそれ以上のセットだったので、収めた箱はずっしりと重かった。演奏するレコードプレーヤーも、とんだ重荷を背負わされた。ターンテーブルはシングル版サイズなので、LPは盤面からはみ出してしまう。針のアームは何とか届いたが、ソノシートに慣れきっていたこの機械は、LP版のあまりの重量に四苦八苦しているようだった。

音楽を鑑賞する環境が貧弱だったからか、それとも僕の感性が貧相だったからか、はてさて、幼少の砌の僕は、あまり音楽に関心を持っていなかった。

音楽は大嫌い

中学時代を通して、僕は音楽が嫌いだった。学校での音楽の授業は、その理論的な側面からして理解不能。楽器も、縦笛などをやらされていたと思うが、すでに「やらされていた」という記憶が物語るように、厭々習っていた。歌を歌わされても、ろくな声量が出ない。いわゆる音痴、なのかもしれない。人生で初めて0点の解答用紙を返されたのも、音楽の授業だった。

僕が在籍していた中学校は、受験して入学した、埼玉県南地方レベルでのエリート校だったので、同級生たちは、それなりに授業を受け流していた。地方官僚の予備軍たちには、それぐらいの身のこなしが求められるのだろう。一方で、修学旅行や林間学校のレクリエーション用に歌集が編纂されると、そこには必ず「傘が無い」とか「翼をください」といった70年代フォークミュージックの断片が挿入されていた。

僕が中学生だった70年代後半のフォークミュージックは、学生運動の迷走や停滞といった社会状況の袋小路を反映して、自分自身の殻に閉じこもろうとする、吃驚したカタツムリが見せる仕草のような、なんともつまらない歌がほとんどだった。翼の無いカタツムリが、いったい何処へ飛び立つというのだろう? 殻が割れるのが、関の山だ。

今でこそ「引きこもり」は、社会的認知を受けるに至ったが、当時、72年の連合赤軍・浅間山荘事件武装闘争を標榜する新左翼セクト、「共産主義者同盟赤軍派」と「京浜安保共闘」らの分派が合体した「連合赤軍」が、大菩薩峠での一斉検挙を受け、その残存メンバーが猟銃で武装し軽井沢・浅間山荘に人質を取って立てこもる。10日間にわたる機動隊との攻防戦の末、敗北。TV中継によって全国に衝撃を与えた事件だが、その後連合赤軍による同志の粛清・殺害が発覚、このことが新左翼運動全般に壊滅的打撃を与えたが学生運動や社会運動を引き裂き、可愛い子供が大学や社会に出て「過激派」にならないよう、過激に保護にする過保護な「教育ママ」たちが、社会性を持たない世代を連綿と育ててきたことが、今ではマスコミを賑わせているだけなのかもしれない。

僕を含め、そんな過保護な子供たちが選抜され糾合された中学校では、文化祭でミュージシャンを気取り、ステージで演奏したがる連中も、ちょっとした不良の装いに身を包みながらも、歌っている中身は逃避に過ぎなかった。

クラスの一部の女の子たちは、当時イギリスで驚異的な人気を誇っていたアイドルバンド、「ベイシティ・ローラーズ」に熱を上げ、スコットランド民族衣装のタータンチェックをあしらったハンカチなんかを持ち歩いていたが、そのほうが先鋭的だったのかもしれない。ベイシティ・ローラーズなんて、イギリス版ジャニーズバンドみたいなものに過ぎないのだが。英語も苦手だったので、この海外アイドルバンドが何を歌っているのかはよく知らないが、よく知らなくてもいいような代物だったことは間違いない。

総じて、僕は音楽が嫌いだった。

海の向こうの噂

海外からは、他にも人を脅かすようなバンドがやってきていた。歌舞伎役者みたいな化粧をし、火も噴くという触れ込みで、「キッス」というロックバンドが来日したりした。こうしたエキセントリックなミュージシャンは、その音楽性よりも見かけが初心な日本人の気を惹くようで、マスコミの格好の餌食になる。そうでなければ、音楽に関心のない僕の耳に、そんなバンドの噂など届きはしなかっただろう。とはいえ、僕はキッスに必要以上の関心を持つことは、その当時も、それ以降も、一切なかった。

同じように、海外からのニュースで、音楽ではなくスキャンダルだけが伝えられたバンドがあった。「セックス・ピストルズ」(Sex Pistols)。中学生の僕には、その名前すらとんでもないものに思えた。彼らの音楽スタイルが「パンク」と呼ばれていたことを、その時に知ったかどうかは記憶にないが、イギリス国家の元首エリザベス女王を皮肉った、というより唾棄した歌を歌っている、といった僅かな伝聞情報に、少しだけ心躍るものを僕は感じた。日本で、「元首」たる天皇を皮肉ったり、罵倒したりする者など、一般社会のおしとやかな表面では、滅多にいない。背後には右翼の暴力という無言の威嚇があるからだ。

それに対し、音楽という甘っちょろいだけだと思っていた分野で、最高権威に対する反抗心を見せつけるミュージシャンがいるなんて、海の向こうの話ながら、なんとなく爽快だったのだ。セックス・ピストルズやパンクロックに限らず、音楽にはそうした反抗心があることに、当時、僕はまだ気づいていなかった。

僕が中学校に入学した1976年は、パンクがその産声、というよりも雄叫びを上げた年だ。中学2年のときは、イギリス人の鼓膜をパンクが蹂躙し、良識ある紳士淑女たちの顰蹙を買い、僕が高校に入る79年には、既に嵐は収まりつつあった。後になってから、貴重な時間を僕は見過ごしてしまっていたことに気づいたが、それは後の祭り。

海の向こうの噂に、少しだけ心の針が振れた。しかし、その音に耳を傾けるまでには至らなかった。中学時代、かつての秀才の威光は廃れ、僕の成績はいつも学年の最後尾に、なんとかしがみついていた。中学も受験、高校も受験、そして大学も? そんなことのためにしている勉強は、馬鹿馬鹿しかった。成績が落ちた半面、歴史や社会といった、興味を持てる分野が見えてきた。今、こんな文章が書けるように、「国語」の才能もあったのだが、文法がどうしたこうしたを教えるだけの授業では、その才能も宝の持ち腐れに終わっていた。自分のやるべきことと、やらされることとの違い。能力を傾けるべきことと、切り捨てることとの峻別。それらの整理は付いていたものの、実行に移す勇気が僕にはまだなかった。反抗心の欠如、もしくは萎縮。そんな僕の耳に、リズムもメロディも歌も、流れてはこなかった。

家にはまだ、小さなレコードプレーヤーしかなかった。やはり、僕は音楽に対して、そっぽを向いていた。

新聞部の部室で

今考えると不思議だが、高校入学を機に、中学時代とは打って変わって、僕は精神的に自立することを予定し、それをスケジュールどおりに実施した。必要と思ったことは、積極的に発言するし、参加もする。教師や親にも、立ち向かう。社会の不正義にも、立ち向かう。そんなこんなで、学校では生徒会活動、校外では政治的な活動にも加わり、部活動でも社会科学研究部や新聞部に所属した。

高校2年の夏休み前、誘われて僕は新聞部に入部した。そこで、僕は初めて、僕が必要とする音楽の輪郭を、窺うことができた。あの、懐かしい新聞部室。裏門の横に佇む、ブロック造り2階建ての部室棟。部室アパートと呼ばれていた、この建物の2階の端に、新聞部室があった。

小さな部屋の真ん中に、どんと置かれた木製の机。書きかけの原稿用紙や、雑然とした資料の類。ガリ版と鉄筆当時、簡易印刷の主流は孔版印刷、通称ガリ版印刷だった。蝋を塗布したろう原紙にガリ版という鉄板の上で、鉄筆を使って文字や絵を描き、そこからインクを浸透させて印刷を行う、エーテルの入った修正液。そして、取材用(誰かにインタビューしたことなんて、記憶にはないが…)のカセットテープレコーダ。英会話の練習に使いそうなやつ。そんな代物の表面積の半分以上を占めるスピーカーは、もちろんモノラル。会話を再生するためだから、音質はほとんど考慮されていない。

そんな冴えないレコーダーに、友人たちは家で録音してきた音楽テープをセットし、割れるような音を、ボリュームを下げて聴いていた。いちおう、隣の部室(ギター部だっただろうか?)に配慮していたのかもしれない。

安っぽいラジオが奏でるような音楽だったけれど、僕は興味を持った。音楽そのものというより、部活で出会った新しい仲間たちへの、関心もあった。

「これ、なんていう曲だい?」

「『エデュケイション』。学歴教育を批判してるのさ」

そんな会話をしたような気がする。英語だったので、音の悪さに関係なく、歌の意味はわからない。誰の曲かも尋ねたけれど、そのときは忘れてしまった。ただ、当時、最も強い関心を持っていた学歴教育、学歴社会のことを、歌にしているロックというものに、中学時代までに知っていた音楽とは異質なもの、しかし、僕自身に近いものを感じた。

そのあとで、このカセットレコーダーが衝撃的に演奏したのは、ジミ・ヘンドリックスの「アメリカ国歌」だった。オリンピックの表彰式とか、あとはニュースなどで、アメリカの国歌は耳にしていた。それをエレキギターによる即興で、思いっきり歪んだ音で鳴り響かせている。もちろん、レコーダーの音質が、それに拍車をかけていたのは言うまでもない。白い紙を、くしゃくしゃに丸めて、さらに引きちぎったような、そんな音の連続だった。歌は、ない。歪んだ音だけが、増幅されていく。

僕は、「これがロックだ」と勝手に頷いた。現代社会に批判的な精神を持つ者なら、当然否定するか、懐疑の目を向ける、超大国アメリカ。音そのものの力とともに、その国歌を揶揄するかのように演奏することが、僕には衝撃的だった。

その結果、初めて買ったレコードは、ジミ・ヘンドリックスのベスト盤。新聞部の友人と、資料集めか何かでお茶の水まで出かけたとき、神保町の輸入レコード店で棚から引っ張り出した。最初は、例のレコードプレーヤーで聴いていたけれど、輸入盤、しかもアメリカ盤はレコードの品質そのものが悪く、やたらと分厚かったりする。可哀想なプレーヤーは引退し、30センチのLP盤が乗せられるものに、いつの間にか買い換えていた。

雨のレコード店

とはいえ、ジミ・ヘンドリックスのロックは、「アメリカ国歌」の演奏だけだった。彼は偉大なロックミュージシャンの一人に数え上げられているが、僕の求めるものとは、そうとう毛色が違っていた。輸入盤には、歌詞カードも解説もなく、何を歌っているのか分からない。初めは、「ロックとはこういうものだ」と納得していたけれど、ギター、ベース、ドラムで演奏される電気的な音、という点では確かにそうなのだが、何かが違うことは、僕も薄々感じ取っていた。「エデュケイション」もジミ・ヘンドリックスの曲だと、僕は勝手に理解していたが、まったくの勘違い。

「エデュケイション」が、「キンクス」(The Kinks)というバンドの曲だということは、新聞部の別の友人から聞いた。ある日、キンクスを特集したラジオ番組がオンエアされるという。僕も、家に帰ってから耳をそばだてて聴いたけれど、「エデュケイション」は演奏されなかった。そのラジオを介しては、まだキンクスの魅力は僕に伝わらなかった。

その後で、彼はキンクスの曲をカセットテープにまとめてくれた。それをもらった日、新聞部の仲間たちと、隣町の大宮に出かけた。当時は「さいたま新都心」なんて影も形もなく、学校のある与野駅の次は、大宮駅だ。電車で出かけたのか、高校生らしく歩いて(30分も歩けば、学校から大宮駅前へ出られる。そのぐらいの距離は、大したことはなかった)行ったのか、もう仔細まで覚えてはいないが、曇りで雨がぱらついていた、なんてことは、頭の片隅に残っている。

当時、大宮駅東口には西武デパートがあり、その中にやや大きなレコード店があった。僕らはエスカレーターでそこまで昇り、思い思いにレコードの棚を漁っていた。コンパクトディスクの現代とは違い、LPレコードは棚、というよりプラスチック製の箱の中に縦に並べられ、陳列されている。ミュージシャンの名前を書いたタブを目印に、その箱の中から1枚1枚引っ張り出して、お目当てのレコードを探すのだ。結構、効率が悪く疲れる作業だが、慣れてくると、引き出したレコードとの思わぬ出会いがあったりして、夢中になってしまう。

僕は、まだその愉しみに浸れるほど経験を積んではいなかったので、手早く、注目盤を眺めていたりした。発売直後のレコードなどは、箱の中ではなく、その上に1枚だけ掲げられている。ふと、僕の目に留まったのは、「サンディニスタ」というタイトルのアルバムだった。サンディニスタ、といえば、1979年、中米のニカラグアで独裁政権を倒し、革命を成功させたサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)のことだ。

音楽と政治は無縁なものとは言わないまでも、音楽は政治を忌避しているのが一般的だ。当時は、街で流れる音楽といえば、主流は演歌を含む「歌謡曲」であり、あとは後ろ向きのフォークをニューミュージックなんて呼んでいたぐらいだ。そこに、ある程度の社会性はにじみ出ていたとしても、露骨に政治を掲げるものなんて皆無だった。ロックも、そんなものだと思っていた。

そんな状況だというのに、政治的なテーマを、そのままタイトルにしているなんて、どんな連中なのだろう。「このアルバムを買ってみたい」と思ったけれど、なんと3枚組み。3000円以上する。普通のアルバムは2500円ぐらい。昼食を抜いて貯めた予算では、3枚組みは畏れ多かった。

そこで、このアルバムを制作したバンド、「クラッシュ」(The Clash)のコーナーを探して、陳列箱からレコードを引き上げてみた。中には「パールハーバー」ハワイ・真珠湾。旧日本軍が奇襲攻撃し、悲惨な日米戦争の端緒となった場所なんてものもあり、「右翼じゃないのか?」とも疑ったけれど、結局、彼らのファーストアルバムである「白い暴動」を買うことにした。

クラッシュが、セックス・ピストルズと共に英国パンクの双璧をなすバンドだとは、そのときはまったく知らなかった。偶然にしては、出来すぎた出会いだけれど、お互いを惹き合うものが、きっとどこかにあったのだろう。

家に帰ってから、「白い暴動」を聴いた。歌は叫びであり、音は、ジミ・ヘンドリックスのように歪んではいても冗長ではなく、直情的で簡潔だった。紙を破る感じは同じだが、クラッシュの曲は、それをすぐに丸めて捨ててしまい、即座に次へ取り掛かる。長い曲は1つだけで、あとは鋭い言葉の短編集だった。

「白い暴動」は、こんな歌だ。“イギリスの黒人移民たちは、社会に抗議しレンガを投げて暴動を起こしている。ところが白人たちは学校で去勢され、何もしようとはしない。それではダメだ、自分たちにも「白い暴動」が必要なんだ”、そう訴えかける、まさにアジテーション。また、「アメリカにはうんざりだ」なんて歌や、あまりにも過激で歌詞が公表されていない、なんてものまである。

訳詞がなく、英語の歌詞からの断片的な印象と、ライナーノーツから刷り込まれた情報の寄せ集めではあったけれど、このバンドが、僕が音楽に今まで見つけられなかったものを、最も確実に体現していることを感じ取った。これが、僕の音楽との、ほんとうの出会いだった。

カセットテープの60分

その日は、もうひとつの収穫があった。友人がくれたキンクスのカセットテープ。そこに、例の「エデュケイション」は入っていなかったけれど、なんだか不思議と懐かしい感じのする楽曲が、両面60分ぐらいのテープに詰まっていた。クラッシュのような、激しさではなく、優しさを含んだ音。それは、子供の頃に聴いた、童謡のような雰囲気があった。

見慣れた風景のような音。キンクスはイギリスのバンドであり、メンバーもロンドン近郊の出身なので、埼玉で育った僕とは、生活環境にそれほど共通点があるとも思えない。しかし、どこか遠くで長い間暮らし、ふと、故郷に帰ってきたときに、周りのものに感じる懐かしさ、そんなものがある。

小学校5年まで、僕は埼玉県川口市で育ち、その後、埼玉の首都・浦和市に引っ越した。大人になってから、川口に立ち寄ったとき、街はとても小さく感じた。子供の頃の目線で、風景を記憶しているから、それなりに背丈が伸びた大人の視界では、思い出よりも高い位置を掠めてしまう。もっと長かったはずの道のりが、もっと高かったはずの壁が、なんだか箱庭のように、小ぢんまりとしている。そこに感じる哀愁のようなものが、キンクスの奏でるメロディなのだ。

まあ、そこまで大仰に言わなくても、仕事で東京に出かけ、帰りの電車が境を越えて浦和に戻ったときの安堵感、そんなものに近いだろう。

その当時、僕が求めていたのは、自分自身や社会に対する厳しさであり、郷愁とか哀愁といったものは、ちょっと後ろめたい感じがした。厳しさは、クラッシュのようなバンドが、表現した。一方で、後ろめたさの中にある、捨てがたい優しさ。キンクスは、そんな世界を受け持ってくれた。友人は、

「たぶん、こんなのが好きだろうと思ったよ」

と、見抜いていた。

新聞部の友人たちからは、「ローリング・ストーンズ」(Rolling Stones)「ザ・フー」(The Who)といったバンドのことも教わった。キンクスとともに、60年代のイギリスを代表するロックバンドだ。ビートルズ(僕は、このメジャーバンドに興味はない)を“別格”とすると、ストーンズ、フー、キンクスが御三家といったところだろう。まあ彼らの趣味が、ちょうどこの時代のロックに傾倒していたために、僕にもその世界が乗り移ってしまったとも言える。

実際、カセットテープをくれた友人は、ストーンズが60年代に出したアルバムを売ってくれた。それらの音だけでなく、ライナーノーツを読んで、僕は60年代・英米音楽シーンの概要を把握することができたのだった。