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黒住浩司 Webサイト

Windows 8.1を巡る論理の差異

内容

Windows 8.1 プレビュー版の外観

先月末、Microsoft Windows 8の次期バージョン、Windows 8.1のプレビュー版が公開されました。

私も早速試してみましたが、推奨されている現在使用している既存のWindows 8環境をアップデートする方法には躊躇したので、Windows 8付属の仮想マシンであるクライアント版Hyper-Vに、Windows 8.1 Preview ISO ファイルから新規インストールしました。

Windows 8.1プレビュー版のスタート画面
Windows 8.1プレビュー版のスタート画面。背景には、デスクトップの壁紙も表示できる
Windows 8.1プレビュー版のデスクトップ画面
Windows 8.1プレビュー版のデスクトップ画面。SkyDriveがファイルシステムと透過的に統合されている
Windows 8.1プレビュー版のIE11
Windows 8.1プレビュー版のIE11。ストアアプリとしての表示

すでに様々なニュースで報じられているとおり、Windows 8.1では、スタート画面の改良や、SkyDriveとの統合、そしてInternet Explorerの11へのバージョンアップなどが確認できます。

スタートボタン狂騒曲

こうしたニュースの中で、例えば朝日新聞のWeb版「朝日新聞デジタル」では、「スタートボタン復活『8.1』」発表 ウィンドウズ8、不評のため」という記事が掲載されていました。この記事の全文は、登録ユーザーしか閲覧できませんが、『8』ではスタートボタン機能をいったん廃止したが、利用者の評判がよくなかったため、元に戻したという記述に見られるとおり、ユーザーの不評から改良せざるを得なかったという論調です。

私は「朝日新聞デジタル」に登録しているので、この記事が目についただけですが、8.1の事前情報が流れ始めた6月初旬ぐらいから実際にプレビュー版が発表された時点で、「スタートボタン復活」が8.1の目玉であるかのような捉え方が中心になっていました。

朝日新聞デジタルの記事もそのひとつですが、「元に戻した」という内容は誤報とは言わないまでも、事実を正しく伝えていません。それは、Windows 7までのスタートボタン機能を復活させたものではなく、スタート画面への切り替えをタスクバーに常時表示させるようにしただけのものだからです。いわば、「Windowsキー」をマウスでクリックできるようになったわけです。ただ、「スタートボタン復活」は旬の話題だったので、朝日新聞デジタルの記事はそれに追随しただけなのかもしれません。もしくは、いわゆる”一般紙”の認識は、この程度のものなのでしょう。

朝日新聞デジタルの記事では触れられていない、Windows 8.1の改良点は様々で、ユーザの目に見えるインターフェイスの改良だけでなく、開発者向けのOS内部構造の改良も、多々含まれています。コンピューター関連のニュースサイトでは、そういった点に触れた記事や評価が、8.1の発表後、色々と掲載されるようになってきました。

以上の記事は、「スタートボタン復活」にとどまらない、8.1の外面と内面を紹介する詳細な記事です。また、8.1に対する評価も比較的肯定的です。インターフェイスを掘り下げた記事では、

というものもあり、復活「スタートボタン」が何なのかも取り上げられています。なお、この記事では、8.1でこれでやっと(少しは)使いやすくなったといえようと結論付けているように、そもそもWindows 8に対して、執筆者は否定的評価を抱いていることが感じ取られます。

いずれにしても、やはり一般紙とは違って、コンピューター関連サイトの記事は、当たり前かもしれませんが、内容をきちんと掘り下げて紹介しているということです。「スタートボタン復活」云々だけで8.1を捉えるのは、あまりにも浅薄な認識でしかありません。

もちろん、パソコンなどに関心のない人にとって、そんなことはどうでもよいのかもしれません。そして、「不評だった故にスタートボタンを復活させたものがWindows 8.1」と言ったほうが簡単ですし、マイクロソフト嫌いの人には受けが良いかもしれません。世の中は、そうやって思考を単純化したほうが、過ごしやすいでしょう。

浅薄な論理の受容

しかし、思考を複雑にしがちな私は、ふと考えてしまうのです。

1990年代前半、ちょうどキューバ危機30周年の頃、ふと、深夜にアメリカ3大ネットワークのどこかが制作した、キューバ革命とキューバ危機を振り返るドキュメンタリー番組を放映していて、偶然それを見る機会がありました。その中での主張は、「革命は独裁者を倒したところまではよかったが、革命後、カストロたちは民主主義者を弾圧、処刑したので、アメリカとの対立が生じた」というものでした。これには、びっくり仰天しました。

左翼である私の認識では、「革命後、カストロたちは土地や農場などキューバに残されていたアメリカの権益に手を付けたためアメリカとの対立が深まり、アメリカの軍事力に対抗するためソ連邦との同盟に傾斜した」、と捉えていたからです。アメリカ帝国主義の経済支配からの解放は、現在にも続く中南米革命の根本的なテーマの一つであり、それを無視して、ただ「民主主義者の弾圧」でキューバ革命を片付けてしまう報道を、アメリカ人は受け入れているのかと驚いた次第です。

これ以外にも、たとえば以前民放で、歴史上の人物の生涯を伝えるバラエティー番組がありました。司会は、関口宏だったでしょうか。そこで取り上げられる人物を、私があまり知らない場合であれば、「へえ、そんな人だったのか」などと納得していたのですが、関心があったり調べたことのある人物の話になると、その放送内容の浅薄さにがっかりする、ということがありました。そこから、「自分が納得してしまった人物の話も、それなりの知識(もしくは立場)を持って聞けば、それは薄っぺらな論理で組み立てられているのかもしれない」と、疑うようになりました。

様々な情報は、その依って立つところが違うと、根幹から異なる論理で展開され、日常の中に溢れかえっていくわけです。そして、自身の関心が薄ければ薄いほど、薄っぺらな論理も受け入れやすくなります。Windows 8.1プレビュー版を巡る話題を通じても、そのことを再認識しました。

まあ、Windows 8.1の評価における差異など、重箱の隅をつつくようなテーマに過ぎないかもしれませんが。