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黒住浩司 Webサイト

いわゆる「所謂」

内容

語彙としての「所謂」

所謂
読み: いわゆる
意味: よくいわれる世間一般で言われる俗に言う、ところの何かを表すために前に置く、いわゆる「連体」

日常の「所謂」

たとえば、2009年以前にWebページレイアウトの主流だった、「いわゆるレイアウトテーブル」。ブラウザーのスタイルシートへの対応度がまちまちだったため、ページの内容を段組みで表したい時などにスタイルシートを使わず、table要素の行列構造を利用する方法のことです。table要素は、あくまでも表形式のデータ構造を表すためのものですから、それをレイアウト目的で使ってしまうのは、文書構造上の意味(いわゆるセマンティックス)を侵害することになります。

にもかかわらず、当時、この技法の中では堂々と「レイアウトテーブル」と呼ばれていたのですが、HTMLにそうしたtable要素の定義は存在しません。故に私は、「いわゆるレイアウトテーブル」と常に呼んできました。

つまり、「世間一般で言われるところのレイアウトテーブル」ですが、そんなものはインチキだよ、という批判的な観点から、「所謂」を使ったわけです。批判的、もしくはある程度否定的な観点を持って、ある言葉を用いるとき、「所謂」が冠せられることになります。もしくは、批判的な観点はそれほど強くなく、ただその言葉が指すものが、世間一般で用語として確固たる位置を占めていないとき、「所謂」を付けることもあるでしょう。

Web関連の用語でもう一つ挙げるなら、「いわゆるCSS3」。これは、CSS3として今まで扱われていたモジュールが、Level 1に位置づけられてしまったために、その用語的混乱状況を揶揄したり、取り繕ったりしたものです。いわゆるCSS3の代表的なモジュールのひとつである「フレキシブル ボックス レイアウト」も、2014年3月25日の最終草案で、遂に「CSS Flexible Box Layout Module Level 1」として、Level 1に定義されました。まあ、この場合の「所謂」は、批判というより、皮肉でしょうか。

最近、世間を騒がせた、「いわゆるSTAP細胞」などは、また微妙なところです。現状ではその存在が科学的に確定されていないという点で、緩やかに「所謂」を付ける人もいれば、この研究に否定的な立場の人は、冷笑的に「所謂」と呼び捨てることでしょう。

同じく時事問題としては、「いわゆる調査捕鯨」というものもあります。これは、「あくまでも科学的調査で、その結果として得られた鯨肉の販売は認められている」、という論理に対するものです。いわゆる調査捕鯨による鯨肉が、限定的な市場で販売・消費されているのではなく、街のどこにでもあるようなスーパーの売り場で、ごく当たり前に陳列されていたり、一般的な居酒屋チェーンのメニューに載っていたりする状況を見れば、これが商業捕鯨の抜け道として利用されていることは明白です。こうした現実を前にしては、自嘲的に「所謂」と呟くしかありません。

いわゆる社会主義

私は「所謂」を、一種の政治的用語として解釈していますが、それはトロツキズムの立場の中で、この言葉がよく使われていたからです。英語での「so-called」に「所謂」が訳語として当てられていたのですが、そこでよく登場するのが「so-called socialism」、すなわち「いわゆる社会主義」です。

「いわゆる社会主義」は、1920年代後半以降、のソヴィエト連邦の社会体制を指します。この時代から1991年に崩壊するまで、ソ連邦の政治権力は自らのことを、またいわゆる西側諸国もその体制を、「社会主義」と呼んできました。この自称・他称「社会主義」は、トロツキズムや他の革命的マルクス主義の立場からすると、とうてい社会主義とは呼べない代物でした。ですから、自らの目指す社会主義と、ソ連邦のような官僚が支配する抑圧体制を区別するため、「いわゆる社会主義」と呼んだわけです。

ついでに言えば、いわゆる旧東側諸国や中国などを、昔は「共産主義国」「共産国」とも、西側では呼んでいました。まあ、スターリンなどもソ連邦で共産主義を実現したなどと言っていたので仕方ないかもしれませんが、これらの言葉は「所謂」以前に、自己矛盾に陥っています。共産主義社会とは、国家が死滅した状態のことを指すので、共産+国は成り立ちません。マルクス主義の理論ではありえない「共産主義国」「共産国」は、その理論をろくに理解もしていないスターリニストや西側社会での論調による、まさに俗に言うところの用語というわけです。

他愛のない「所謂」

以上のような批判性や政治性を帯びずに、「所謂」が口をついて出てしまうことも、もちろんあります。たとえば、パソコンの演算装置を「いわゆるCPU」と呼ぶとしたら、他にもAPUとかMPUと言ったりする場合もあるので、それらを含めて総称的に扱うためかもしれません。東日本大震災を「いわゆる東北関東大震災」と呼ぶとしたら、それは当時、まだ統一された名称が無かったからかもしれません。猫の「いわゆるゴロゴロ」と言ったら、それは科学的にこの事象が解明されていなかったり、人や言語の違いでゴロゴロという擬音の表し方が違っていたりするからかもしれません。

日常を歪めていく「所謂」

そうした、他愛もなかったり、言葉が定まっていなかったりというだけの「所謂」なら、さほど気に留めることもないのですが、NHKのニュースで、どうしても引っかかる「所謂」があります。それは、従軍慰安婦に冠せられる「いわゆる」です。最近では、韓国との外交問題や、河野談話見直し問題に絡んで、「従軍慰安婦」という言葉がアナウンサーの口に上ることが多いのですが、NHKでは必ず、「いわゆる従軍慰安婦」と言っています。もちろん、日本政府の公式見解である(はず)の河野談話の中でも、「いわゆる従軍慰安婦」と呼んでいるので、ただそれに従っているだけとも言えます。そして、日本国内には、従軍慰安婦をはじめとする、いわゆる「皇軍」やいわゆる「大日本帝国」の犯罪行為を無かったものとして、もしくは正しかったものとして捉えようとする右翼的世論も根強く存在しているので、中立報道を掲げるNHKとしては、「いわゆる従軍慰安婦」と呼んだほうが無難という判断かもしれません。しかし、NHKは「いわゆるSTAP細胞」とは決して呼びませんが。

まあ、百歩譲って「河野談話」用語としての「いわゆる従軍慰安婦」だったとしても、従軍慰安婦問題は、歴史の評価に対する立場を分けるものとして、今日も厳然と存在しています。そこは、かつて天皇の戦争責任を報じたドキュメンタリー番組に圧力をかけ、今や従軍慰安婦問題を否定する会長を送り込んだ、「安倍晋三のNHK」ですから、「いわゆる従軍慰安婦」が中立的なニュース用語なのかどうか、胡散臭さが漂います。

歴史に対する反省を、「所謂」で回避したり、ごまかそうとしたりする立場は、いずれ「いわゆる河野談話」「いわゆる村山談話」という呼称へと移り変わり、「いわゆる憲法九条」を経て、そんないわゆるものなど元々無かったかのように、歴史と社会を歪める方向へ道を開いていきます。そういえば、「いわゆる武器輸出三原則」も、事実上無くなってしまいましたね。「いわゆる非核三原則」も、同じ道を歩むのでしょうか?

或るものがまだ「所謂」を冠しているうちに、それが何を追求しているものなのか、よく考えてみるべき「所謂」が、世の中には多々存在するということです。