ハナちゃんの足跡

~最愛の友だちを記念して~


さようなら、ハナちゃん ハナちゃんの在りし日の姿 小太郎と小次郎 過去の日誌
ハナちゃん 小太郎 小次郎

2005年3月14日(月)

個人的に浦和レッズを応援している僕は、ラジオ・パーソナリティの大野勢太郎氏のコラムが掲載されているサイトを、時々見ている。今季も開幕から2試合が過ぎ、久しぶりにこのサイトを覗いてみると、コラムには大野氏の謝罪文が掲載されていて、いったい何事だろうと驚いた。

調べてみると、あるレッズサポーターの方たちが、レッズの応援もするとともに憲法9条も(どちらかといえば護憲のスタンスで)話せるような「レッズ&ピース」とういグループを作り、自分たちの旗もスタジアムで掲げたいという埼玉新聞の記事が事の発端だとわかった。同記事では、やはり憲法9条について考える市民団体「9条の会 埼玉」の呼びかけ人だった(既に辞退)大野氏が、その場に加わり、こうしたグループの結成を好意的に受け止めていることも報じられていた。

これに対し、主としてネット上で

という反対意見が沸きあがり、浦和レッズにも抗議電話等が寄せられたようだ。その結果、「レッズ&ピース」の結成は当事者自身によって見送られ、大野氏は各方面に謝罪しレッズ関係の仕事も一部辞退(「自粛」と言うべきか...)することになり、埼玉新聞も謝罪記事を発表した。

僕は日和見した元左翼で、まだそうした思想や思考方法を持ち続けているが、憲法9条には反対だ。世界最大のならずもの国家・アメリカの軍事力に守られ、経済的繁栄を維持し、その世界戦略に追随する政府を持ちながら、平和だけを追求するのは、おかしいと思うからだ。

だからといって、日本軍国主義の過去を顧みず、民族主義の高揚を叫び、アジア諸国の人々を蔑視し、軍事力の増強を求めるような連中は、僕とは相容れない。護憲派や9条擁護派のほうが、良心的な考えであると僕は思う。

以前、レッズがJ2に降格しかけていたときも、ネット上だけの“世論”は猛威を振るった。今回など、初戦敗退、第2戦引き分けのレッズの戦果に意気消沈して、大野氏のコラムなど読まなければ、見過ごしていたぐらいの世論だ。しかも、匿名で行われる発言の数々。それぐらいのものでも、しかも一般の個人に矛先が向けられた圧力が功を奏してしまうことに、まず嫌悪感を覚える。

もちろん、「レッズの名前を利用するな」という主張には賛同する。ただし、今回の場合は、サポータグループの名前として、ぐらいのニュアンスなので、名称の「政治利用」とは到底思えない。それに、名称など使わなくても、レッズを政治利用できる相川・さいたま市長や上田・埼玉県知事がいる。それらと比べれば、大騒ぎするほどの問題ではないだろう。

スポーツと政治の問題に関しては、今回危惧されたのは、サポーター同士の間で政治的立場や思想的違いによって分裂が持たされるのでないか、という点だろう。たしかに、政治・思想的相違からスタジアムで乱闘が起きるような事態は、多くの人が望まないだろう。僕も、そんなものには巻き込まれたくない(特に右翼の暴力には巻き込まれたくない)ので、観戦時に大手を振って政治的主張などはしない。しかし、スタジアムを政治的中立の場にする、もしくは休戦場にするということも、それ自体が政治的判断であり、スポーツに政治を持ち込んでいるに過ぎない。「政治」という言葉を、どこかに追いやり、無関係なものとして排除しようとしても、世の中のほとんどのことは、政治的性格を帯びている。それを、多くの人は忘却しようとしているのだろうか。それとも、忘れ去るよう意図的に教育されてきたのだろうか。

その一方で、「政治」を隠しながら政治的意図で、この「問題」を煽りたい勢力もいるようだ。すなわち、民族主義者たちだ。スポーツの政治的中立、レッズの名称利用反対という“正論”によって、護憲や平和主義をねじ伏せたいのだろう。

露骨な民族主義的意図も垣間見えるのだが、それよりも僕が不安に感じるのは、護憲・平和主義が蔑視の対象となったり、間違った考えときめつけられるような風潮だ。今回の騒動が、いともたやすく「レッズ&ピース」をつぶしてしまった背景には、極端な民族主義的・軍国主義的主張よりも、こうした風潮が牽引役になったような気がしてならない。やはり、アジアで、中国や韓国、時には北朝鮮を相手にするサッカーが、その舞台だったからだろうか。

ワールドカップ予選など国代表の国際試合では、これらの国々の反日感情を見せつけられる。やはり、民族的な敵意には、こちらも防戦もしくは応戦したくなる。そして、日本の歴史教育は、旧日本軍国主義の実態に触れることを、ほとんど避けてきた。最近では、避けるどころか「昔も正しかった」などと教えることが、まかり通るようになってきている。戦争なんか知らない世代は、反日感情を目の当たりにして、格好の(安易な)盾や鎧を手に入れられるようになったわけだ。それが、さらに反日感情への悪循環を生む。さらに、経済発展を続ける中国は、次第に大国として映るようになり、経済的行き詰まりからなかなか抜け出せない日本人に、焦りや萎縮を感じさせる。その反作用が、また火に油を注ぐ。 ただし、ネット上での論調は、特に匿名性を帯びている場合、威勢がよくなる傾向が強いようだ。民族主義的論調への傾斜が、こうした“姿なき空威張り”に過ぎず、現実社会での基盤を持たないよう願いたい。

サッカーに限らず、国の代表が競うスポーツは、非常に政治的かつ民族主義的な色彩を帯びている。ソフトながらも、その実態は国威発揚だ。だから、僕はサッカーの代表戦は観たいとも思わないし、応援する気もない。民族 や民族国家なんて、僕が選んだものではない。お仕着せの衣装に過ぎない。僕が浦和を応援するのは、生まれも育ちも浦和ではない僕が、意図的に選んだものだからだ。そんな考えを持つ個人からすると、サポーターも「同士」であって、「同志」ではあり得ない。 レッズサポーターであっても、民族主義者や国粋主義者などと仲良く手をつないで応援することなど、僕は御免こうむりたい。別に政治的立場だけでなく、クラブの姿勢や選手への評価によっても、同じ仲間とは思えないサポーターだっている。それを、たとえば昨季優勝を決めた駒場スタジアムの舞い散る紙吹雪の中で、僕も一時忘れているだけだ。その幸福感だけで、政治的現実を忘れることはできない。

平和を考えることが政治的であるように、観戦の場を中立化することも政治的介入だ。スポーツは政治からの聖域だという幻想は、平和主義が非政治的感覚だという幻想と、大差はない。サポーターだろうとなんだろうと、身の回りや世の中に対し、政治的判断をするのは当然のことだ。そうすることを危険なことだとか、嫌悪すべきことだと考えるほうが、社会生活において個人の立場を弱めてしまう。 「レッズ&ピース」というのも、社会人としてあたりまえの発想で、それを日常的と思えないことのほうに問題がある。まあ、当事者たちも「政治」という認識は希薄なようだが、レッズも含まれる日常感覚の中で平和(や憲法問題)を考えるのは、大事なことではないだろうか。政治的判断をしながら、それが政治的であることを忘却することで、結果的に一方の政治的立場に寄与している現実は、いずれその判断の足元も掘り崩していくだろう。

猫の、小太郎の、柔らかい毛並みで覆われた頭を撫でていると、不快な日本の現状も少しは忘れることができる。 猫が幸せに生きられるなら、平和主義も良いかもしれないな、なんて最近は思うこともある。平和主義的論調では、「子供を戦場には送りたくないという母親の思い」なんていうフレーズが、よく使われる。猫と一緒に暮らしていると、そんな気持ちも分かるような気がする。その一方で、忘れるだけで良いのかと、不安な気分も拭い去れない。小さなことから、世界は間違った方向に進んでしまったのだから。

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