特に意識するまでもなく、正月が過ぎ2004年となった。年末年始も、基本的に普段と同じように、猫と一緒に生活している。小太郎と過ごす正月は二度目だ。昨年は実家へ戻ってすぐだったのでバタバタしていたし、お付き合いで家族と一緒に御節料理も食べた。従来の生活パターンをある程度取り戻した今年は、実家には住んでいるものの、小太郎と二人だけで、気ままに正月をやり過ごすことができた。そう、ハナちゃんと一緒に暮らしていたときのように。
そして、また五月が今年もやってくるだろう。ハナちゃんの二周忌ということになる。「家の猫が車に轢かれて死んだとき、有休を取りました」なんて会話を涙も流さず言えるほど、僕は「ハナちゃんはもういない」という現実を客観視できるようにはなった。この“日記”を命日の21日には必ず書く、という習慣も、仕事にかまけて疎かにするようにもなってきた。
まあ、そのほうが“傍観者”どもに「ペットロス症候群」などと勝手な診断もされずに済むだろう。最近では、何にでも症候群の病名が献上され、「心のケア」という常套句が付きまとっている。病気を病気として認めず、野蛮な根性主義を振りかざすよりは、人の心に優しい時代になったと言えなくもない。だが、ニュースなどでは事件が起きると「~心のケアが必要です」という言葉だけを何度も聞かされ、その具体的な内容にはほとんど触れない。心はこもっていないが、体裁だけは慇懃に、「敬具」なんて文字を手紙の末尾に書いているようなものだ。
ハナちゃんを失ったことの心の穴埋めに、サイトを作ったり、日記を書いたり、小太郎を家族に迎え入れたり、といったことを僕はしているわけではない。心に空いた穴を、僕が生きている間は僕自身が忘れないように、そうしたことをしているのだ。人には、いろいろな生き方がある。そして、判で押されたような生き方に、意図的に反発してきたからこそ、今の僕がいる。
心における喪失感への対処は、人それぞれなのだ。正月に御節や雑煮を食べるがのごとく、判で押したように済ませられたなら、病める人類はもっと少なく、世界はもう少し平和になっていただろう。いや、猫たちとは異なり、判で押したような人類こそがたくさんいるということは、その反対だろうか?