ハナちゃんの足跡

~最愛の友だちを記念して~


さようなら、ハナちゃん ハナちゃんの在りし日の姿 小太郎と小次郎 過去の日誌
ハナちゃん 小太郎 小次郎

2003年12月21日(日)

いつの間にやら、季節は師走で極寒。今年も終わりに近づいている。忘年会シーズンでもあるけれど、元々、人付き合いは少なめに抑えているので、連日酒を飲まなければならない、なんていう羽目に陥ることもない。唯一、例年欠かさないように心がけているのは、高校時代の友人たちとの、ごく内輪の忘年会だ。ここ十年ぐらいは、なぜか僕が幹事のような役目を請け負わされているので、この時期になると電話をかけたりメールで日程調整をしなくてはならない。まあ、面倒だけれど、盆と年の瀬ぐらいしか巡ってこない仕事なので、それも良しとしよう。

昨日は、訓練校のある卒業生たちの忘年会に出かけた。「講師」の僕に幹事役が回ってくることはないので、こうした忘年会は気が楽だ。多少、気が緩み、小太郎を数時間も独りにしてしまい、帰宅が午前1時過ぎになってしまった。出かける前の数時間、小太郎が僕に寄り添って昼寝をしていたので、離れがたかったのだけれど、家を空ければ午前様。その分、今日は家から一歩も出ないで、小太郎のそばに居てあげた。CATVでゴジラ映画の特集をやっていたので、それも玄関の外へ踏み出さなかった理由なのだが。

子供のころ、「ゴジラ」をよく観ていたのは“人類の味方”になってしまってからだったので、思い出としては「怪獣総進撃」あたりが一番懐かしい。しかし、大人の視点で観ると、やはり「ゴジラ」第一作が最高傑作であり、それを超えるものはない。同じく大人の視点に則ると、ゴジラに破壊された東京は、第二次大戦時の惨禍の記憶が生々しく反映されたものと解釈、否、感じさせらる。子供の頃の僕にとって、怪獣映画の魅力は、ビルや家を破壊することの迫力と“爽快さ”だったような気がするが、「ゴジラ」第一作では、燃え上がる街の映像が楽しさを感じさせることはない。果たして、子供の頃、この映画を面白く観ることができただろうか。また、ゴジラを退治する発明に対し、いわゆる「大量破壊兵器」としてその弊害を危惧する視点を、共有できたかどうかも疑わしい。

しかし、一方で現在も続編が公開されているゴジラ映画の氾濫ぶりを見ると、深刻さを視点に加えることのできない“大人”も量産されていることに、僕はがっかりさせられる。まあ、僕自身、そんなくだらない大衆に幻滅しつつ、無意味な争いを知らずに無邪気に眠る小太郎の頭を撫でて、気持ちを和らげるのが精一杯の存在に過ぎないのだが。

今のところ、日本にゴジラはいない。まだ、アルカイダによるテロも起きていない。平和な国。しかし、勇ましい声が、日増しにボルテージを上げている。一方で、無益な争いをしない猫のハナちゃんは、車に撥ねられて死んだ。「21」を冠する日に。

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