ハナちゃんの足跡

~最愛の友だちを記念して~


さようなら、ハナちゃん ハナちゃんの在りし日の姿 小太郎と小次郎 過去の日誌
ハナちゃん 小太郎 小次郎

2003年11月10日(月)

今日は朝早く、所用で北浦和駅まで出かけた。暇つぶしと朝食を兼ねて、西口駅前のハンバーガー店に久しぶりに入ってみる。以前は、午前10時前のメニューにハンバーガーはなく、ベーグルサンドなどを販売していたはずなのだが、煩雑な切り替えメニューは止めてしまったようだ。ハンバーガーの種類だけがたくさん並んでいるメニューを見て、一瞬、途惑ってしまった。そんな、軽いアクシデントを乗り越え、西口駅前を眺められる二階席に着く。北浦和に住んでいた頃は、あまりこの場所で食事をすることはなかった。大抵は、家に持ち帰って食べていた。ハナちゃんにフライドポテトを差し出したこともあったが、食べるのではなくおもちゃにして玩んでいたのを思い出す。とはいえ、駅前の風景は見慣れたものだ。最近は飲食店が増え、文化の香りのする書店が減っている。まだその移り変わりは、僕の記憶の範疇に留まっている。

しかし、次第にこの風景の実在感が、僕の中から失われつつあるようだ。北浦和を離れて、もうすぐ一年が経つ。たかだか徒歩で二十分程度、離れたところに移っただけなのだが、もうここは、僕の生活の場ではない。度々訪れてはいるものの、最早、ただの立ち寄り先になってしまった。駅前を眺めていても、「今日は雨だからバスで帰ろうか」、なんてことを考えてしまう。北浦和にいた時は、この風景の中に住んでいたのだから、帰り道を心配するような余所余所しい態度は取らなかった。西口だけでなく東口駅前ロータリーも、小さな商店街も、北浦和公園や近代美術館も、住宅の合間の路地も、庭であり部屋でもあった。そんな濃密な関係が、過去に置き去りにされていく。

しかし、北浦和は僕にとって大事な場所であり、今でもちょっとした不思議が起きる。先月26日の夜、北浦和を自転車で訪れた。10月26日は、僕とハナちゃんの出会いの記念日だからだ。その場所に通りかかると、道端に小さな影を見つけた。全身真っ黒の、黒猫。子猫だった。大きさは初めて出会った頃のハナちゃんより、少し小さいぐらい。同じゴミ捨て場近くを徘徊していた。側に寄ってみると、ハナちゃんほどには警戒しなかったけれど、一定の距離を保って近づこうとはしない。自転車を降りてみても、同じだった。顔は、何だかハナちゃんに似ていたような気がする。また、運命の場所に、新たな猫の使いが現れた。

この猫が気になって、以来、仕事の帰りなどによく北浦和へ来ているのだが、今のところ黒猫君とは出会うことができずにいる。10月26日という特別な日の、夢だったのだろうか。もし僕が、まだ北浦和の、同じ場所に住んでいたとしたら、ハナちゃんと同じように餌で気を引いて、拾ってあげることができたかもしれない。飼い猫なのか、ほんとうに野良猫なのか、確かめることもできただろう。しかし、それはもう無理な話だ。偶然、いや必然的に訪れた一瞬のチャンスを、僕は逃してしまったようだ。そんあこともあって、北浦和という場所が僕から失われていくことに、寂しさと無念さを感じる。ほんとうなら、北浦和に戻りたい。

親(厳密には、父親)との同居なんてうんざりだ。猫とだけ一緒に暮らしたい。最近、大学生と高校生の少年少女が家族を殺そうとした事件があったけれど、彼らが抱いた逃避への願望は、僕にはそれほど奇異な動機とは思えない。世間はこの事件をセンセーショナルに取り上げて、格好の詮索対象にしたいようだ。しかし、常識人ぶった連中も腹の底では、親や他人に対する似たり寄ったりの感情を、多かれ少なかれ燻らせていることは間違いない。まあ、僕も小市民兼常識人として、そんな感情よりも市井の義務に従うことしかできない。人を殺したのに自由の身でいられる、などという幼稚な展望は持てないし、僕が牢屋に入ったら一番辛い生活を強いられるのは小太郎だ。そんな無責任な現実逃避は、選択のしようがない。

今の僕は、出入りの自由な牢屋に入っているようなものだ。どこへでも出かけられるけど、ここに帰ってこなければならない。その場所は、とうぶん、どうにも動かせない。小太郎が一緒に居てくれるのだから、そんなに悪い待遇ではない。しかし、いずれは鎖が自然に切れる日がやって来る。そのとき、僕は小太郎を連れて、ハナちゃんとの想い出の地に帰るだろう。その日まで、なるべく多くの風景が、僕の想い出と同じ姿を留めていてくれることを、願わずにはいられない。

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