つい先ごろまで、街中で咲き誇っていた金木犀の花も、いつの間にか散ってしまった。それだけ、秋も深まったということか。金木犀は小さくて可憐な花だけれど、こうもいたるところに植えられていると、なんだか食傷気味だ。浦和の街も、訓練校のある東京の西の外れに行っても、同じ匂いで満ちている。まあ、さすがは浦和。家の近所には、他では見られないような金木犀の、まさに大木が、一本聳えている。その木が金木犀だとは、花が咲くまで気がつかなかった。そして、咲いた姿は壮観だった。ただ、その金木犀は、打ち捨てられ荒廃した庭に生えている。
その近所には、廃屋や、没落したと思われる家の空き地が、なぜか多い。そして、「山神」という神社がある。とても小さな神社だが、鬱蒼とした樹木に覆われている。金木犀の花が盛んに咲いていた頃、その境内に足を踏み入れると、突然の眩暈に襲われた。「ちょっとおかしいな」、と思いつつ家に辿り着くと、今度は部屋の中がぐるぐると回転していた。そして嘔吐。秋晴れの清々しい日和だったのに、とんだ一日だった。午前中に食べたスパゲッティに食中りしたのかもしれないが、山神様の祟りでは、と畏れ入ってしまった。
今年の秋は、そんな事件と金木犀が記憶の中で連結してしまった。しかし、子供の頃は、秋=金木犀のイメージは、僕の中では存在していなかった。小学生時代に住んでいた埼玉県川口市には、あまり植えられていなかったのかもしれない。もしくは、まだ背が低かったので、金木犀を目の当たりにすることがなかったのかもしれない。その頃の秋の草花といえば、コスモスかセンダングサだった。コスモスは、よくある白やピンクではなく、オレンジ色の花を咲かせる種類が、僕にとっての“正統派”だ。住んでいた社宅に隣接する工場で、僕はよく遊んでいた。そこには、オレンジ色のコスモスだけが咲いていた。それしか、僕は知らなかった。今でも、白やピンクの花には、造花のようなよそよそしさを感じてしまう。
また、僕が住んでいた川口は、市南部の工場地帯だったので、林や森とはほとんど縁がなかった。小さな空き地に生えている植物が、僕の世界だった。とはいえ、まだ小さかったので、空き地の草叢でもジャングルのように“探検”していた。すると、秋、衣服にやたらとくっついてくるのがセンダングサの種子だった。草木が次第に緑を失い、肌を撫でる風も冷たくなりだした頃が、センダングサの黄色い花と、黒い鉤付き種子の想い出だ。最近、見沼田圃の芝川沿いでセンダングサの群生地を見つけたのだが、やはりこの小さな雑草が、僕にとって「晩秋」を予感させる象徴だということに気づいた。
子供の頃の僕よりも、もっと低い視線で世界を眺めていたハナちゃん。ハナちゃんは、草叢の中で、どんな花を見ていたのだろうか? 春に咲く花、夏に咲く花、秋に咲く花、そんな違いを意識していたのだろうか? 季節の移り変わりを、僕の知らない景色の中で感じて いたのだろうか? 今日は21日。そして火曜日。僕はハナちゃんの知らない景色の中を、朝、ハナちゃんの知らない駅に向かって歩いていた。