「冷夏」、と騒がれてから数週間、今度は「残暑」という気候になっている。今年は、8月下旬から9月中旬までを「盛夏」と呼んだ方が似合っているようだ。とはいえ、朝晩は涼しくなってきた。小太郎も、あと少しの辛抱だ。さて、この季節は、僕が講師を務めているひとつの訓練校で、“卒業”シーズンを迎える。僕にとっては、ほんの少し名残惜しい瞬間だ。そんな気分のせいか、実質的な最後の授業の後に、幾人かの生徒たちと雑談が弾んだ。
件の生徒たちとは、ガンダムとかニーチェとか武士道とか、TV番組から哲学らしきものまでの、とりとめの無いというよりやや支離滅裂な、楽しい会話だった。よくよく考えると、最近は生徒たちを除くと、あまり人類と会話をしていないような気がする。比較的会う機会の多い、二十年来の友達連中とは、やはり、何だかわからない話をしている。その多くは、高校時代から連綿と続く数々の想い出に起因する内容がほとんどだ。さらにデヴィッド・ボウイやP.I.L.の歌詞や諺が、決めぜりふのように混ざったり、川口浩司探検隊への追憶も往々にして語られる。「フリークラウドから来たワイルドな瞳をした少年」「天網恢恢疎にして漏らさず」「原始恐竜魚ガーギラス」。しかし、僕らの間ではどうやら意思は通じ合っているし、そこにユーモアを見い出して苦笑している。
そして、ふだんは、小太郎との一方的な会話がほとんどだ。「どうした」「お腹すいたのか」「やめなさい」「噛むな」「可愛いなあ」「柔らかいなあ」「にゃあ」。まあ、小太郎は気ままに応えてくれる。ハナちゃんとの会話も、同じようなものだった。その中でも、いちばん心に残っているのは、「大きくなったね」「ずっと一緒にいようね」と語りかけていたことだ。小太郎に同じ言葉をかけるとき、ハナちゃんにそうしていた時を想い出してしまう。
言葉には、魂が宿っている。唯物論的立場の僕としては、思考生活の残像が息づいている、とせいぜい詩的に表現すべきだろうか。人類と話しているとき、その魂とやらの響きはどこに伝わっているのだろう? 一方、 猫類と話している時、彼・彼女らの小さくて気高い心に何らかの共鳴を引き起こしていることを、僕は信じたい。あの美しい瞳を見る限り、その信憑性は高そうだ。