ハナちゃんの足跡

~最愛の友だちを記念して~


さようなら、ハナちゃん ハナちゃんの在りし日の姿 小太郎と小次郎 過去の日誌
ハナちゃん 小太郎 小次郎

2003年2月21日(金)

実家に帰ってから、そろそろ2ヶ月。「言葉がしゃべれたらいいのにね」。母は、小太郎に向かって時々こんなことを呟いている。『みかん絵日記』という僕の好きな漫画も、しゃべる猫が主人公だった。こうした願望や夢想とは反対のアプローチとして、人間が猫の言葉を理解しようというアイデアもある。先日、『猫語練習帳』という本をもらった。その本には、摩訶不思議な猫語が収録されている。

現在は「非常勤講師」という仕事をしているため、これまでと比べ多くの人たちと言葉を交わす機会が増えた。しかし、一人暮らしのときは、学校のない日はほとんどひとりで過ごし、人との「会話」は最小限に限られていた。僕の友人は、両手で数えれば十分な人数だし、度々顔を合わせているわけでもないので、それ以外の無駄な会話を省くことができる絶妙な環境に恵まれていた。家に帰れば、以前はハナちゃんと、現在は小太郎と会話をするだけだった。

猫語を理解する、という姿勢もユニークではあるが、僕は「言葉」が無いことにこそ猫たちとのコミュニケーションの楽しさを感じている。僕の言葉も、猫の鳴き声も、お互いにとっては言語としての意味を持っていはいないが、感情を伝え合う響きが備わっている。それは音声による信号でしかないが、立派な「言霊」を宿しているのだ。

猫か人間、いずれかの言葉が通じ合えば、たとえば外へ出かけるハナちゃんに注意をして、あの9ヶ月前の事故を防ぐことができたかもしれない。言葉には、そうした利便性がある。しかし、今更無いものねだりをしてもしようがないだろう。反対に、言葉が存在するがゆえに不快な気分にさせられることもある。実家に帰って以来父との会話は、ほんの僅かではあってもうんざりさせられている。ろくでなしの人間と言葉を交わすよりも、言葉の無い世界を猫たちと共有するほうが、比べものにならないほど僕には大切なことだ。

言葉が無くても、ハナちゃんとともに暮らした日々は幸せだった。

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