もう8月になった。毎週火曜日に、ハナちゃんの事故から何週間が経ったのか――という数え方をしなくなった。これからは毎月21日に、あれから何ヶ月――と数え、そして数年後には5月21日がカレンダーに表示される頃、あれから何年と思いを巡らすことになるのだろう。
この1ヶ月ぐらい、ハナちゃんのスライドショーは観ていなかった。別にこのサイトを開かなくても、僕の手元にはオリジナルの写真があるので、より膨大な画像を簡単に観ることができる。しかし、ハナちゃんの写真を眺め続けることが怖かった。ぞっとするほどの、寂しさを覚えるからだ。僕の周りを小太郎が元気に跳ね回っていても、この寂しさは変わらない。
猫の顔立ち、表情、仕草には、当然、個性がある。甘え方も、いたずらの仕方も、その猫しだいだ。一方で、猫という種族に共通した行動もある。遊び、食べ、疲れたら寝てしまう。目の前に動くものがあると、すぐちょっかいを出す。ふと、人間のことを見つめている。そんな姿に、ハナちゃんの面影を感じずにはいられない。
夜、ハナちゃんの事故現場を通りかかったら、近づく車も意に介さず薄闇の中をゆっくり渡る猫のシルエットを見かけた。ハナちゃんもここを歩いていたんだな、お前は気をつけろよ、と呟く。あの場所に限らず、家の周りを歩くと、かつて見かけたハナちゃんの様々な仕草が、薄い影になって浮かび上がる。部屋の中でも、それは同じだ。今日、久しぶりにスライドショーを観たが、それはハナちゃんの想い出を色濃く封じ込めた、影なのだ。寂しさという副作用はあるものの、僕は時々、影が薄くならないように、スライドショーや写真を開くだろう。
小太郎は色々なところに飛び乗ることができるようになってきたが、テレビの上だけは今のところ近づかない。そこには今もハナちゃんの遺灰が、骨壷に入って鎮座している。家に帰って来たとき、僕は以前のように鼻を突き合わせて、その遺灰に挨拶をする。小太郎は、それを不思議そうに眺めている。いつか、何も知らない小太郎は、その場所を占領するだろう。そのときまでは、テレビの上はハナちゃんの縄張りだ。もしかすると、小太郎もわかっているのかもしれない。