ハナちゃんが死んでしまってから、早くも1ヶ月になろうとしている。初めの2週間は、あっという間に過ぎていった。あの日から、もうこんなに時間が経過してしまったのか、と。しかし3週間を越えると、なぜか時の流れが滞り始めた。
ハナちゃんのいない生活が1ヶ月近く続き、隣に手を伸ばしてもあの柔らかい毛皮の感触を得られないことが、あたりまえになっている。あたりまえになってしまったことが、再び悲しみを甦らせる。僕は、あの日から逃げ出したいのだろうか。だから、時間の停滞を感じるようになったのだろうか?
梅雨に入り、あまり好きではない雨の日が続いている。この嫌いな雨に僕が望んでいるのは、ハナちゃんの事故現場に残る血の跡を洗い流してくれることだ。それは、今でも薄い染みとなって残っている。僕の生活圏内にあるため、日に1度は、その近くを通ることになる。そして、毎回僕はあの日のことを、あの日のハナちゃんの姿を思い出す。
せめて、血の跡ぐらいなくなってほしい。雨だけでは頼りない。道路工事でアスファルトを打ち砕かない限り、無理なのだろうか? そう思う一方で、痕跡がなくなってしまうことへの寂しさも、やはり心のどこかにくすぶっている。忌まわしい思い出かもしれないが、それはハナちゃんが存在していたことの裏返しなのだから。
人の人生は、その死によって最終的に記録される。歴史に名を残す人物ではなくても、少なくとも身内の人たちは彼・彼女の一生を振り返り、心に記憶を綴じ込める。それが猫でも違いはない。死はやはり、その画期を成す出来事だ。ハナちゃんは、想い出としての存在に生まれ変わった。その場所は、忌まわしくも神聖なのだ。
とはいえ、寂しさの重圧は続く。駅から少し離れた陸橋の上で北浦和の街並みを眺めるとき、ハナちゃんを思い出して、ハナちゃんと暮らした時間を振り返って、時々涙を拭う。