永遠――とは言わないまでも、人間の一生において末永く残るものは、ほんとうに少ない。磐石だと思っていた存在も、 あっけなく消えてしまう。頼りになるのは、自分自身の記憶だけ。それも、歳月とともにおぼろげになっていってしまう。
僕は東京・阿佐ヶ谷で生まれたが、2歳か3歳ぐらいで引っ越したため、阿佐ヶ谷の記憶はまったくといっていいほど残っていない。それが、すべての出鼻を挫いたのだろうか。小学校5年までを過ごした埼玉・川口 では、住んでいたのが社宅だったため、もう当時の家は取り壊されてしまった。
小学6年のとき、浦和に引っ越して今に至る。残りの小学校と中学校は、何の思い出も残らない不毛な時間だったが、自ら主体的に「人生」を切り拓いた高校時代が、僕の原点になっている。それが、僕の浦和への愛着にもつながっている。しかし、高校時代の実家も今は人手に渡ってしまった。何より、無くなるとは思いもしなかった「浦和市」が、与野やその他の市と合併して「さいたま市」になってしまい、地図の上からも消滅してしまった。
さらに付け加えると、理念上では人類史上唯一の非民族国家であり、その社会機構の名前を国名に冠していた「ソヴィエト連邦」も、未完の革命のまま消滅した。もし、FIFAワールドカップの昨日の試合が 「ソ連邦対日本」だったなら、僕は迷わずソ連邦を応援しただろう。ロシアと日本では、僕にはどうでもいいことだ。
僕が生きている間は、僕が大事にしていた記憶は、色褪せながらも何とか残っていくだろう。しかし、それまでだ。ハナちゃんの記憶も、僕とともに、いつかは消えてなくなる。いつかは別れることが分かっていたけれど、いつものように唐突に、いつものようにあまりにも早く終わってしまった、ハナちゃんと一緒の暮らし。それらを記録した、“半永久”と称されるデジタルデータも、僕がいなくなれば 物理な消滅を免れることはできない。永遠に――と望んだものは、儚い幕切れの印象だけを、心に焼き付けていく。