今日、実家へ顔を出しに行った。といっても、自転車で10分ぐらいしかかからない。2、3回、ハナちゃんにあったことのある母に、ハナちゃんが死んだことを話したが、特に関心は示さなかった。そう、他人事には違いない。
僕と同世代で、子供を亡くした友人がいる。さすがに僕らも驚き、少し間を置いてからみんなでお見舞いに行った。そのとき、僕らはたぶん、友人の気持ちを理解しようとしたはずだ。しかし、結局のところは、ほんとうの悲しみを知ることなどできるはずがない。神妙な面持ちは、そんな後ろめたさを隠す仮面なのだ。
ハナちゃんの死が心の中で占める大きさも、僕以外の人間は理解することはできない。たとえ、飼い猫の死を経験したことがある人でも、他人の心を覗くことはできない。僕がそうした人に出会っても、「僕も悲しい思いをした経験があります」ぐらいのことを、神妙に呟くのが精一杯だろう。
かかりつけの獣医さんは、ハナちゃんの死であまりに動転していた僕に、ペットの冊子をくれた。それが悪いことなのではない。人間の理解力と表現力は、万能ではないというだけのことだ。人が理解できる限度は、自分の心の範囲まで。それでも、人と人は付き合おうとする。「人間」という言葉が、言い表しているように。
僕は、人より猫が好きだ。猫と心が通じ合ったように感じるのは、人間同士のそれに比べ、より幻想に近いのかもしれないし、より真実に近いのかもしれない。永遠の謎には違いないけれど、なんてロマンチックなんだろう。とはいえ、猫と心を通わせるのも、人間同士以上に難しい。ハナちゃんとの付き合いでは、1年ぐらいの時間をかけた。
実家からの帰り道、見沼田圃まで足を延ばした。そこで1匹、また家の近くで2匹、猫を見かけた。実家にも、通いの黒猫が来ているらしい。僕は、その猫にも会ってみたかった。ごめんね、ハナちゃん。