人生最悪、と呼んでも差し支えないあの日から、1週間が過ぎた。先週とは違って、今日は学校の講義に出かけた。そして家に帰ってくる。2週間前であれば、ポストを開ける音、ドアの前に近づく足音で、ハナちゃんは僕が帰ってきたことを察知し、扉の向こうで早く外に出せ、と鳴き声を上げる。そして一瞬、外へ飛び出すと、すぐ中に戻ってきた。
1週間も、2週間も、人間が作った勝手な尺度にしか過ぎない。トーマス・マンの小説「魔の山」では、高地のサナトリウムで費やされる無為な日々が、時間観念の相対的な、つまり皮相な性格を論じていた。
この2年ほど、非常勤講師の仕事をするようになって、週に2日ぐらいは規則正しく、そして多数の人間と接するようになった。毎週訪れる講義の予定は、その準備が差し迫るほどに近接したものに感じられ、1週間があっという間に過ぎるという感覚が、久しぶりによみがえった。一方で、1年という大きな区切りでは、4月に出会った生徒たちが3月に卒業するまで、非常に長い時間をともに過ごしているような錯覚に陥る。めまぐるしく変わる1週間と、滔々と流れる1年間。時間感覚は、人間社会のありふれた様相を呈していた。
そうした時間軸の一方で、ハナちゃんと暮らした別の時間軸が、どこかに存在した。ハナちゃんの成長、僕との物理的かつ心理的な距離の振幅、そして未来への希望。ハナちゃんとの時間は、長くもなく、短くもなかった。せかされることはなく、かといって停滞していたわけでもない。僕が、猫の生活リズムに引きずり込まれていたのだろうか? そうだとしても、それを幸福と呼ぶことができただろう。
ハナちゃんの死から一週間。この時間感覚は、すでに普通の社会生活のリズムに戻ってしまっている。